古今亭文菊インタビュー

「 人との出会いは、全部自分の心次第で変わっていく 」

  • インタビュー・編集:藤井崇史 / 撮影:坂木亮太

公開日:

古今亭文菊

古今亭文菊(ここんていぶんぎく)

2001年 学習院大学文学部卒業
2002年11月1日 古今亭圓菊に入門
2003年1月10日 前座となる 前座名「菊六」
2006年5月21日 二ツ目昇進
2012年9月21日 真打昇進 「文菊」と改名

【受賞歴】
2008年 落語一番勝負若手落語家グランプリ
2009年 平成21年度NHK新人演芸大賞
2012年 浅草芸能大賞新人賞受賞
2015年 第70回文化庁芸術祭賞 大衆芸能部門 優秀賞
2020年 令和元年度国立演芸場花形演芸大賞 大賞受賞
2021年 令和2年度国立演芸場花形演芸大賞 大賞受賞


古今亭文菊 公式ホームページ

苦しみが、自分を見つめる為に必要な「発明の母」

お子さんと一緒にNHKの「おかあさんといっしょ」(2023年10月7日放送)に出演されましたよね? どんな経緯ですか?

古今亭文菊

かみさんが勝手に応募して、それで当たったんです。
「だから、あなた行って来い」ってんで、自分の昔の考え方であればもう絶対に反発して「噺家はそんなものに出るべきじゃない」って言ったはずなんですよ。
なので、あれは修行の成果だと思ってます(笑)。

骨董品をコレクションされてますが、そのきっかけはなんですか?

古今亭文菊

根付( 武士や町人たちが、巾着や煙草入れ、印籠などを帯に吊るす時につけた滑り止めのための留め具 )が好きで、興味はあったんですが、中々手が出なかったんです。
それが、年代物の根付をいただく機会があり、それからですね。

根付だけでなく、茶碗もお好きですよね?

古今亭文菊

古陶磁っていう土物は手を出さない方がいいって思ってたんですけど、高座に湯呑みを置いても、もういいかなと思って。
それで、欲しくなるとそっちにも手を出すように(笑)。

古今亭文菊

子どもの頃から生きづらさを感じていて、自己肯定感が低く、圓菊師匠に入門して人間性や人格を否定されても、この師匠に付いて行こうと思えたのはなぜですか?

古今亭文菊

何かをしたいけど、何をしたらいいのかが分からないってことにずっと悩んでいて、一つ軸になるもの、それを落語にしようと決めたわけですから、それがもし挫折するようであれば、私の人生が終わっちゃうわけじゃないけど、相当大きな部分を諦めることになることになるんだと。何度も逃げ出したいというか、そういう思いは前座の頃はありましたけど、喰らいつくしかなかったんじゃないかなと思いますね。よっぽどの覚悟で入門して、人生をどうやって生きていくのかということですから。

圓菊師匠の修行があまりに厳しすぎて逃げようと考えていた程だったそうですが、その厳しさの中から得たものはなんですか?
艱難汝を玉にすかんなんなんじをたまにす」(多くの困難を乗り越えてこそ立派な人間になるという意味)とも認知科学者の野村亮太さんとの対談でもおっしゃってましたが。

古今亭文菊

かみさんとの修行もそうなんですが、これは人によってケースバイケースであるから、皆がそうであるわけではないですけど、私の場合は、心の中の現状のいる部屋から出ないといけなかったから、それは理屈、対話では出られないわけですよ。
つまり、自分だと思ってるわけだから、これが。これを変えなくちゃいけない、それにはやっぱり相当な理不尽、苦しみがないと。必要な「発明の母」なわけですよ。
苦しみが私にとって悟りとは言わないですけど、自分を見つめるきっかけになるというような気がしますけどね。
そういう環境を与えてくれたと思っています。

出ハケも一つの要素

二ツ目の頃はウケないと売れないと思って悩んでいたそうですが、その悩みを解消するきっかけとなったことはなんですか?

古今亭文菊

売れる売れないを意識してないわけじゃないですけど、特に二ツ目の頃は目先の目標が、例えばNHK新人演芸大賞を取るんだとか、そういう目標は持ってましたね。( 二ツ目昇進時から3年連続で決勝まで進み、4年目にNHK新人演芸大賞を受賞 )
なんの為に落語をやるのか、落語って何をする芸能なんだろうっていうのがよく分かってなかったんです。笑わせる為にここにいるのか、そうでないのか。うちの師匠の圓菊は「落語は大衆芸能なんだから、その場にいるお客さんをとにかく笑わせるんだ」って考えがあった。
だから私もそうあるべきなんだろうと。

師匠の考えだから、そうなりますよね。

古今亭文菊

そうしなくちゃいけない、そうしないと売れないと思ってたんですけど、なかなかそれが上手くいかなかったんだろうね、自分のやってる高座では。なんか違うんじゃないかなって。結局、師匠圓菊と一緒に居れた期間は全てで10年でした( 文菊の入門は圓菊が74歳の時で、84歳で死去 )。
後半の3年ぐらいは患って施設に入ってますから、実質本当に向き合ったのは、どうだろう5、6年になるんじゃないかな。
だから、変な話ですけど、師匠があのまま元気でずっといれば、今とはちょっとまた違った感じになったかもしれないですね。

古今亭文菊

その可能性はありますよね。

古今亭文菊

現実として師匠が旅立ったことは辛いことであって、大変なことであるけど、離れてみて、もっと違ってもいいのかなと思えたんだと思います。
それで、やっぱり(柳家)小三治師匠の考えが出てくるんですよね。

どういう考えですか?

古今亭文菊

小三治師匠の目指す落語が「笑わせようとするな」で、笑いをとることを第一義的に考えていないわけですよね。
そこに血の通った人間が居るかどうかということなんだと思います。
だから、結果的にそういう考え方に近付いていくというか、そっちの方が私はしっくりくるタイプだったのかもしれませんね。

でも、真打になり、真打披露興行中に師匠が亡くなり、28人抜きの抜擢真打として、ふさわしい高座をしなくちゃいけないと悩むわけですよね?

古今亭文菊

まだなんにも土台もないし、どうしていいか分からない状況で真打になってますからね。
(春風亭)一之輔兄さんが、2012年3月に真打で( 同年の9月に文菊は28人抜きの抜擢真打で昇進 )、一之輔兄さんはお客様を笑わせるっていう方にずっと舵を切ってやってましたからね。
同じように「自分もそれをやんなくちゃいけねぇのかな」っていうのと、でも「それが出来ないしな」っていう板挟みで。
あと、抜擢なんだからっていう気負いもありました。

出囃子が鳴って、高座までの独特なあの歩き方をされるようになったのはいつ頃からですか?

古今亭文菊

意識して突然やったわけじゃなくて、自然とああいう形になっていったわけです。

あれでまず自分の雰囲気に持っていけますよね。

古今亭文菊

高座に上がるっていうのは空気を提供しますってことですからね。
出ハケっていうのも一つの要素なんじゃないですかね。

温かみっていうのがなかったんですよ、心に

亭主関白みたいな結婚観が違うと、一度は奥さんの元を離れた後に改心されたきっかけはなんですか? 奥さんを冗談ではなくて、本気で師匠と呼ぶまでに至るには相当の覚悟だと思うのですが

古今亭文菊

そこがなんだろう、いくら説明しても、他人には分かり得ないところというか、もちろん色んな要素があります。
逃げた時は、自分の殻から出たくないと、私をこのままにさせてくれよと思っていました。
かみさんはそれを壊して出て来いって言ってるわけですから。
それで、私は嫌だって言ったわけです。
ヤッター!このままで居られるんだって思っていたけど、結局苦しいんですよ、ずっと。

古今亭文菊

解放されて、楽になったのにですか?

古今亭文菊

つまりこのままだと結局苦しくて駄目なんだろうなと、私は生涯の時間を掛けてこの部屋から出ることをしない限りはずっと苦しいんだろうと。出る苦しみも苦しいけど、そこに留まる苦しみもあるんですよ。それは異質の苦しみであって、出ようとする苦しみは欲望との戦いだから自分がこうしたいとか、こうなんだっていう欲望を律していく、それはそういう苦しさであって、なんでこんなことをしなくちゃいけないんだっていう、面倒くさいなっていう苦しみなんですよ。
もう一方の、ただその部屋に留まる苦しさっていうのは、単発的なボンっていう痛さじゃなくて、じと〜っとずっと浸透する苦しさみたいな、只々ひたすらに苦しいみたいな感じかな。

それに気付いて、土下座してまでですか?

古今亭文菊

気付いてっていうか、それが人生の課題なんだろうと。
その扉から出るということが。

落語で意識しているのは「心が通うか」と、作家の喜多川さんとの対談(2023年10月)でもおっしゃっています。 その為に、まず自分の心をオープンにしているというのもあるのでしょうか?

古今亭文菊

ノウハウで出来ることじゃないですからね。
踊りの手とか、音曲の節とか、そういうものとは違って、マニュアルもないし、型じゃないわけですよ、心が通うっていうのはね。私はそれがずっと分からなかった。つまり、日常の自分に心が通ってないから、当然落語にも心が通わないわけであって、逆に言えば、日常の自分に心が通うようになれば、自然と落語にも心が通うようになると思うんですよ。
だから、自分が閉じ籠っている部屋の中から出ることがまず大きな一歩だったんじゃないかな。

自分の心の閉じ籠った部屋から出ることで、心が開けると。

古今亭文菊

やっぱり心が通うっていうのは、ずっと分からないって言っていた ” 愛 ” なんでしょうね。
愛っていうのは一体なんなんだ! っていうね。
世間の流行歌とかで、君に会いたいとか、君のことしか考えられないとかが愛のように歌っているけど、なんかそれが分かんなかったんですよね。それって愛なのかなって。愛って感覚をずっと分かんなくて、温かみっていうのがなかったんですよ、心にね。
結局人間って、ほんとに全て削げれば、もう ” 愛 ”しか残らないんだと思います、多分。

(笑)。

古今亭文菊

私は愛というものをめちゃくちゃ隠して、頑丈な城壁を作っちゃっていたわけですよ、子どもの頃に。
多分、生まれたての赤ちゃんっていうのは、愛って存在なんじゃないんですか。
それがそのままずっと行ければいいんだけど、どうしても最初に接する親との関係性上で、少しの覆いで愛のまんま行く人と、私みたいに覆いが大きい人って出てきちゃうかもしれないですね。

小三治師匠の「笑わせようとするな」という考え方と、奥さんの言う「執着(一つのことに心をとらわれて、そこから離れられないこと)を取りなさい」というのは、考えとしては似ていますよね?

古今亭文菊

高座の上で正直であるっていう自分と落語と、自分の心に正直にそれをただ出せるかの取り組み方。
それを小三治師匠は、執着を取るってやり方でやったかは分からないですけど、別の形であの境地にいかれたんじゃないですか。
私の場合は扉を開ける為に、執着を取らないといけなかったから、執着を取れば必然的にその部屋から出ることができる。
部屋から出れば、心は通えるんじゃないかということですね。

古今亭文菊

「意外にこれでいいのかな」って思えるようになった

現師匠である奥さんとの修行での、日々の課題をクリアしていく中で、どんな成長を感じていますか?

古今亭文菊

心の変化というのは日々あるんですけど、それは中々表現するのが難しい面もあるんですが、一番大きいのは仕事に対するプライドというか、私が仕事をしているから、家が成り立っているんだっていう昭和の亭主関白なお父さん像がどうしても私は擦り込まれていて、そうあるべきだっていう。それで、自分の落語っていう商売がね、自分の身を削って出演料をいただいているから、より自分で稼いでいるんだっていう思いが強かったんですよ。それが家の中で最上位にくるべきであって、その為に使う時間が当然優先されるだろうと思ってたんですけど、それを現師匠である、かみさんは根底から覆す行為を私に与えてくれます。
独演会の前だろうが、寄席に行く直前だろうが、とにかく家庭の人間との交流、そっちを大事にしなさいと言うわけです。

これから落語会に行く前だと、乱されて動揺してしまわないんですか?

古今亭文菊

だから嫌だったわけですよ。
なんでこれから落語会なのに、一緒に散歩に行かなくちゃいけないんだ! とか、なんなんだよ! って。

そうなりますよね。

古今亭文菊

この家族の時間の為に落語をして稼いでいるじゃないかって私は思うんだけど、その意見を通そうとすると、あまりにその戦いでボロボロにされるから、せざるを得ない、そういう風に。

それは苦しいんじゃないですか?

古今亭文菊

そうです、そうしていると苦しいわけです。
それで、ずっと苦しんで、ある時期に、もう分かった、落語の事は考えない、稽古もしないし、何もしない、だから、それでいいやって思って。
それで仕事がなくなればしょうがないと。
そこまでかみさんが言ってるんだから、言う通りにやってやろうと。
それで、やってみだしたら、案外そっちの方が上手くいったんですよ。

古今亭文菊

そこからですか? 「国立演芸場花形演芸大賞」の大賞を2年連続で受賞したりとか。
(大賞が一番上位で、上から大賞→金賞→銀賞→銅賞の順)

古今亭文菊

そうですね。

余分な力が抜けたということですか?

古今亭文菊

余分な力が抜けたというよりも、その、落語の為にこう時間を使ってるとかは、結局、自分のはらの中でぐるぐる回っているだけだったんですよ。かみさんは、もうそこから出なさいと。
出て、「あなたはあなたという人間を出すしかないんだから」って。その為にはあなたは時間が必要で、落語の為に稽古が必要でって言って、これをやっててもそれにはなれないって。「もっと家族と触れ合ったり、話をしたり、そういう心に変わらなかったらできない」ってことを多分、分かっているわけですよ。
理屈でそれを少しは説明してくれてたんだと思うんですけど、全然分からない、聞こえが自分の肚の中にいると。なぜなら、この自分の理屈は間違ってないって、なってるから。だからそれを一回捨てて、かみさんの言う通りにやるという覚悟でやってみて、またその苦しい時間を過ごしていく内に、「あっ、意外にこれでいいのかな」って思えるようになったってことかもしれませんね。それがこう分かるようになったのは最近のことですから、「かみさんには心から感謝しています。」

「人は 天地のちり」という考え

これからの目標とかはなく、「自分という存在が、どうやったら生きていけるか」と「どう自分がなるべきなのか」、ずっと考えてたことを、「ただ日々毎日やっていくということ」という、その考えに至ったのはいつからなんですか?

古今亭文菊

目標を持たずっていうか、目標を持つまでに至ってなくて、自分がまず存在できるかどうかってことに対してのせめぎ合いだったから、もしかしたらですよ、そこが段々固まってきて、ようやく自分は存在としていられるなってなったら、今度は具体的な目標はでてくるのかもしれませんね。ただ、まだ私は自分の土台を固めなくちゃいけない時期なんだと思います。日々苦しいですから、なぜこれができないんだ、なぜこんなことしなくちゃいけないんだっていう欲望が毎日出てきますから。
それと向き合うことを。
それが難しいんですよ、本当に。

その難しいことへの苦しさはどう考えて解消されるんですか?

古今亭文菊

欲望と向き合って、欲望に日々飲み込まれそうになるわけです。
なるんだけど、それを欲望で解消する。
つまり、一方の欲望は抑えたけど、こっちでは女の子と遊びますからって、これで相殺するってやり方を絶対やってしまうんです、人は。
でも、それだと何も解決にはならないんです。

それは、ただズラしただけだからですよね?

古今亭文菊

そうです、対症療法っていうか、ただ、テープを貼っただけで、根本治癒になっていない。
それで、どうすりゃいいんだろうって、毎日悩むんですよ、毎日ほんとに。
全く大袈裟とかでもなくて。

古今亭文菊

負けそうになりますよね?

古今亭文菊

負けそうにもなります。
だから欲望に逃げちゃいたいって思うこともあるし。
例を挙げれば、女性とかギャンブルとかいくらでもあるけど、今は解消しなくちゃいけない覚悟は強く持っているので、そっちに逃げようっていうのは、セーブできてはいるんです。
ただ解消はできなかった。
どんどん出て来るから。

解消ができないと困りますよね。

古今亭文菊

作家の池波正太郎さんの著書に戦国の上泉伊勢守の半生を描いた「剣の天地」という本があるんですけど、その中で「人は天地の塵ぞ」「塵なればこその命と思い極め、塵なればこその重さを知れ。 塵となりつくして天地に呼吸せよ。」というのがあるんです。

どんな意味ですか?

古今亭文菊

一番大きな執着はその生き方っていうか、自分はこう生きたいっていう生き方の執着。そもそも人間というのは宇宙の塵のほんの一部のかけらであって、そのかけらがどこからか剥がれて、今はここにいるけど、死んだらまた吸収される。要するに、そもそもが母体の一部だから、俺がとか、俺のとかは本来ないんだっていう発想です。

究極の客観性みたいな考え方ですね。

古今亭文菊

だから、般若心経の「色即是空 空即是色」の考え方はなんなんだろうって。なんで物の実態が有るものが無くて、無い物が有るっていうね。それは水が海にある状態から、蒸発して水蒸気になって、目に見えなくなって、雲になって雨となり、また海に落ちて来る。
つまり、水は水であったり、水蒸気であったりする。
それがただぐるぐる回っているだけなんだと。そういう発想というか、心境ですよね。でね、自分も水みたいなもんだと。今はこの形をしているけど、いずれ違う形になって、どこかに吸収されて、何かになるみたいな感覚。その心境に至るというか、感じられると、すごく楽になるっていうか、欲望の苦しみから少し解かれるんですよ。

悟りに近いみたいな感じですか?

古今亭文菊

それを悟りというのか、知識として「色即是空 空即是色」で生きた方がいいんだって思ってることと、本当に会得してその心になるっていうのは雲泥の差ですね。だから、まだ私は会得っていうよりも、その感覚をなんとなくじわじわ模索してるってこと。もう夢なんだと、全部が。
これが欲しい、あれが欲しいって思うものはね、全部が夢であって、どうでもいいことなんだって思えるように。私の存在もこだわる必要ない、ただどうせすぐ居なくなるんだからっていうね。そういう想いです。
そういう想いがあると、欲望への対処法として、他の欲望に逃げるやり方じゃなく、欲望に向き合いながら居られるようになるっていうことですね。

ほのかな「おかしみ」があれば

古今亭文菊

独特の間というか、文菊さんにしか出せない独特さがあって、噺にすごく引き込まれると感じるんですが、ご自身では独特さみたいなのをどのように感じてますか?

古今亭文菊

二ツ目の頃とか、つい最近までも、自分が高座に上がるとね、なんか空気が変わるから、それがすごく嫌で(笑)。
さっきまでワーワー騒いでいたのに、なんで急にピリってなるのかなって。
それで、同じように騒いでやろうと思うと、全然出来ないわけですよ。おかしいなーって思って、で、つまり、全てがつながるわけですよね。自分の心の扉を開いて自分の部屋から出れば、心の通った人間として、愛の溢れた素の人間になれればですよ、それがその人そのものなわけですよ。
そのものが起こす現象っていうのは、偽りのものでもなく、それはしかたのないことというか。
それを受け入れなくちゃ、それを変更させる必要性はないということですよね。

自分のそのものを受け入れるということですね。

古今亭文菊

自然の摂理の様に、お日様が出れば、氷は溶けるんだから、それを溶かしちゃマズいよって言ってもしょうがないわけで。
つまり、素のものっていうか、ほんとの心が起こす作用であれば、たとえそれがどんな結果であろうと受け入れていくことが落語なんだろうと。
だからその間っていうのも、別に意識して作っている部分も少しはありますが、あまり作らないようにしてます。
自分の心地いい間でやっているつもりですけどね。

同期である(立川)志の春さんが、2020年のインタビューでも最近でも文菊さんのことを「文菊さんは、遠赤外線のようなタイプ。 じっくりと中まで熱を入れ、内側からふつふつと温める」とおっしゃっています。 文菊さんも作家の喜多川さんとの対談で、継続的に温かみが続くことを目指していると答えられています。

古今亭文菊

大きく「わっ!」とウケさせることが、自分には不向きなんだなということに気付くと、大きな「わっ!」という笑いは、刺激とかショックとか、興奮じゃないですか。
それとは対極にいるんだなと。
そうすると、その反対っていうのはやっぱり安心とか、心地よさとか、あと、ほのかな温かみみたいなことになるわけですよ。

その考えのきっかけはなんですか?

古今亭文菊

小噺の「隣の空き地に囲いができたってね、へぇ〜(塀)」っていうところに、なんか、ほのかな「おかしみ」というのが自分の中でしっくりきたんですよ。落語って、ほのかな「おかしみ」があればいいんだっていう、だから、お月様とお天道様と雷様が旅して「月日が立つのは早いねぇ」、雷様は「夕立にしよう」っていう小噺とかも、二ツ目の頃とかは何がおかしいんだろう、こんなことをやって人を笑わせられないし、全然理解出来なかった。でも、小噺に向き合ってたら自然になんとなく、ほのかな「おかしみ」でいいんだって思えるようになったのが一つのきっかけというか、要素かもしれないですね。

古今亭文菊

「清らか」でいいじゃないか

その、ほのかな「おかしみ」という考えよりも、もっと大きく笑わせたいと考える方が多数派ですよね?

古今亭文菊

私みたいな考えは楽屋では少数ですけど、笑わせてこそだし、売れてこそだっていうのが大半を占めてるんじゃないですか。ただ、各々ちょっとずつ違うけど、向いている方向は一緒の噺家もいるので。やっぱり、人間って欲に負けちゃうんですよ。
だから、大衆は、毒と刺激と欲にまみれた方にこう流れていくんですよ。売れようとするとそっちをやるべきなんだけど、やっぱりそれに自分が向かなかったってことだと思いますよ。自分の心地良さを探そうとしたら、自然に私はそっちじゃない方が自分は心地いいんだってことに気が付いて、もうそれを正直に言ってもいいんじゃないかと。

そういう気付きを経てなんですね。

古今亭文菊

時代もあると思います。
昭和の時代だったらこんなこと言えないですよ、本当に。
だから、時代の変化っていうのはね、うちのかみさんも常々、「あなたは昭和が好きだとか、俺が、俺がってやってるけど、あなたは昭和では生きていけないんだよ、パンってすぐボコボコにされちゃうんだから」とか、「時代がもう変わったんだから、あなたはほんと恵まれてチャンスなんだから、あなたの感覚で生きていける時代になったんだから、喜ばないと駄目よ、時代に生かされていることを感謝しなさい」って言ってます(笑)。

時代の変化にも救われているということですね。

古今亭文菊

落語の毒と刺激に溢れてる世界を少しでも「清らかな」って言葉を。
3年ぐらい前に初めてそういうことを口にし出したんです。質問のコーナーも設けられた落語会で、「どういう落語をやりたいですか?」みたいな質問に対して。「清らか」でいいじゃないかっていう。
清らかでいるなんて言うことは相当勇気がいることだった。
噺家として清らかになりますなんて、「帰れ」って言われる現状があると思いますから。

芸人さんとかは言わなさそうな感じがしますね。

古今亭文菊

本当に落語を聴きに来る人が、「もっと汚れろよ」とか、「もっと崩れろよ」とか、「もっと駄目なものを見たいんだ俺たちは」みたいな声を実際聞きますし。

落語の噺には駄目な人が出て来るというイメージ像みたいな感じですよね。

古今亭文菊

落語に駄目な人が出て来て失敗をする過程を描くんだけど、それを毒と刺激に溢れて描くタッチと、清らかに描くタッチも描いてもいいんじゃないかって。敢えて目標があれば、死ぬまでにそういう流れの一筋ぐらいできればなって思います。
そういう流れに共鳴してくれるお客様が集まって来るような落語会というか寄席、お客席に。
それが夢ですよね。
今はまだ全然出来てないけど。
でも、ひと月かふた月に一回ぐらいは理解してくれる人に出会うんですよ。
それで、勇気をいただいてます。

全部それでいいんだよってなれて来てるような気がします

古今亭文菊

文菊さんを目当てに来るお客さんって、同じく品のいい感じの方が多い気がします。

古今亭文菊

その場に集まるお客さんっていうのは自分の芸の鑑だって楽屋でよくいうんですけど、全くその通りだなと思うのは、不特定多数の人が集まるわけじゃないですか。
独演会とか寄席もそうですけど、あれって、結局自分が引き寄せるんだと思うんですよ。
だから、共鳴できる人が全員だったら、絶対いい落語になるわけですよ。

そうですよね。

古今亭文菊

共鳴するから自然に受ける、つまり、笑うわけです。そうすると自然と評価もされるようになっていくわけであって、なんか落語家が上手いとか下手とか、おもしろい、おもしろくないってよく捉えるけど、結局自分と共鳴するお客さんと会えるかどうか、相性というか、それを突き詰めると、きちんとそういう共鳴できる人を引き寄せる心を持っているかと思うんですよね。だから、笑いのすべを技術的に持っている人は、技術的なことで人を笑わせるので、どこに行っても通用するんですけど、私の場合はそうじゃない。
いかに共鳴する人と出会うかなんじゃないかなと。

それは運の要素もありますよね?

古今亭文菊

それを、偶然なんだ、運なんだって考えていたんですけど、確実に自分の心が変わると、お客席が変わっているんです。
人との出会いって、全部自分の心次第で変わっていくと思うんですよ。
だから、運ではない、偶然ではないっていうこと。

心次第で考え方が、例えば、上から見ていたのを、今度は下から見ることで違う部分が見えて、捉え方が変わることで、大きく捉えると、運命を切り開くのも自分次第ってことですよね。

古今亭文菊

そうなんだと思います。
努力の仕方が、何をすればいいのか分かんなかったけど、心を磨くってことですね。そういうことしかないんだろうなって。いわゆる欲望って、俺だ、俺だっていう人を引き寄せちゃうんでしょうね。
そういう人っていうのはすごい反発してくるから、すごく苦手で、やられちゃうことが多かったんですけど、最近は、ああこれは自分が呼んでるんだなって。
自分の責任だなって思うようになったことと、さっきの天地の塵だって考え方ですね。
全部それでいいんだよってなれて来てるような気がします。

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