玉川奈々福
「 "浪曲が持つ魅力" で心が動く 」

- インタビュー・編集:藤井崇史 / 撮影:知久存在
公開日:

玉川奈々福(たまがわななふく)
神奈川県横浜市出身。
浪曲師・曲師。
三波春夫先生と同じ7月19日生まれ。
かに座のO型。
【芸歴】
1994年10月、日本浪曲協会主宰三味線教室に参加。
1995年7月、二代目玉川福太郎に入門。
三味線の修行をしていたが、師の勧めにより、2001年より浪曲師としても活動。
2004年「玉川福太郎の徹底天保水滸伝」全5回、2005年「玉川福太郎の浪曲英雄列伝」全5回をプロデュース、全10回公演がすべて大入り満席となる。
2006年12月、芸名を美穂子から奈々福に改め名披露目。
さまざまな浪曲イベントをプロデュースする他、自作の新作浪曲や、長編浪曲も手掛け、他ジャンルの芸能・音楽との交流も多岐にわたって行う。
平成30年度文化庁文化交流使として、イタリア、スロベニア、オーストリア、ハンガリー、ポーランド、キルギス、ウズベキスタンの七か国で公演を行った。中国、韓国でも公演を行った。
【受賞歴】
第11回伊丹十三賞受賞
「浪花節で生きてみる!」(さくら舎)
【編著書】
「語り芸パースペクティブ――かたる、はなす、よむ、うなる」(晶文社)
浪曲師 玉川奈々福オフィシャルサイト
「人生って不思議だな〜」って思いました
無類の日本茶好きだそうですが、いつから日本茶がお好きなんですか?

無類、でもないですけれど(笑)。
うちはずっと、お茶っ葉を淹れる家だったので、日本茶を飲んでたんですけど、お茶を飲むとやっぱり「ホッと」しますよね。
好きな種類はなんですか?

基本的には深蒸し茶が好きです。
いま日常で飲んでいるのは、深蒸し茶と茎茶のブレンドですね。
問屋さんから直接買ってます。
浪曲界に入る前(30年以上前)から関西や九州にも観に行くぐらい大衆演劇がお好きですが、どんなところに惹かれたんですか?

すごい役者さんがいるからですね!20代の後半に大衆演劇にハマって、一番ハマったのが、「浪花の玉三郎」と呼ばれた、美里英二さんですね。今は変わっていますけれど、以前は関西や九州の劇団は、東京だと、浅草の木馬館大衆劇場に一ヶ月、次の一ヶ月は篠原演芸場にかかるっていうのがコースだったんですね。
合わせて二ヶ月あって、約60日ある内の30日も通っちゃったんですよ(笑)。
そんなにもなんですね。

会社に行ってるのかお前みたいな感じで(笑)。
そうですよね(笑)。


それは、大衆演劇って毎日外題(芝居・講談などの題名のこと)が違って、明日この座長さんが何をやるのかと思うと、居ても立っても居られなくなって。
歌舞伎も観てたんですけど、なんていうのかな、 " すごい芸を見つけちゃったぞ " みたいな感じだったんですよ。
毎日外題が変わる楽しさだけじゃなかったってことですよね。

その座長さんがもう魅力的で!
もう踊りにしても芸の深みっていうか、魔力っていうんですかね、そういうのが大衆演劇にはいっぱいあって。
一番回数を見たのは美里座長だったけれど、他の劇団もたくさん観に行きました。地方も網羅したいなって思って、大阪や神戸や九州にも遠征して。九州には熊本に玄海竜二(現・九州演劇協会会頭)さんがおられて。
この方も素晴らしくて、この方が関西とか、関東に来る時には絶対逃さない!っていう感じでした。
今でも変わらず、仕事の合間を縫って地方にまで観に行かれるって、本当にお好きなんですね。

今は浪曲の仕事があり、以前ほどには見ていません。
ただ、ここのところまたご縁ができたんです。劇団花車の姫京之助座長(現・姫元帥座長)は、一番親しくさせていただいた座長なんですけれど、ご長男の姫錦之助さんが、昨年独立して一座を起こされたんです。彼は現在40代なんですけど、まだ9歳だった時から私はお客さんとして観ているんですよ。
その彼がSNSで私を見つけてくれて、顔が似ているけど、名前が違う。
彼が知っている私は、編集者をしていた頃の私なんですよ。
でも絶対そうだと思って、人を介して私に連絡を取って来て、「なんでこんなことやってるんですか?」って(笑)。
編集者だと思っていたからですよね。

それで、「一緒に何か出来ませんか?」って言われた時には、なんということ、「人生って不思議だな〜」って思いましたよ。昔は、浪曲と大衆演劇がコラボして「節劇」というのをやっていた。私はその節劇に以前から興味があったので、錦之助座長と、昨年来、数回、節劇をやらせていただいています。
素敵な縁で嬉しいですよね。

私にとっては、天才子役の錦ちゃんが大きくなって、今はご自分の劇団を立ち上げて座長さんになって、「奈々福さん、一緒に舞台やりませんか?」って、夢のようでしたよね。

浪曲に正解が無い中で、自分の身体を使って試していった
曲師から浪曲師になられたわけですが、「どうやったらそんな声が出せるんですか?」に対しての明確な答えがないとおっしゃっていて、もうただただ色んな師匠の唸るのを観て盗むという、ある種、職人みたいなことなんですか?

メソッド(目的を達成するための手順や方法)がないんですよ、浪曲には。
もともと私は曲師出身で、曲師は、浪曲師の隣にいるから特等席なんですね。師匠の身体の使い方とか、横から観ていたんだけど、元々うちの師匠はものすごく声の有る人なので、一回も楽屋で声出ししなくても、楽々と舞台で声が出せたんです。お腹から出る気持ちのいい声。
真似したいけれど、到底真似できない。
師匠に聞いても「お腹から出すんだよ」としか言わない。
いろんな先輩の舞台を見て、体の使い方を見たり、どうやって声を鍛えたんですかと聞いても、人によって言うことが違うんですよ(笑)。
そこから、どう試行錯誤されたんですか?

正解が無い中で、自分の身体を使って試していくしかないっていう感じですね。
声の出し方というよりも、結局、声をひたすら出していかないと鍛えられないインナーマッスル(身体の深いところに位置する筋肉で深層筋のこと)というのがあって。
素人さんに「股関節から声を出すのよ」って言っても分からないじゃないですか。
声だから、なぜお腹より下なのかって思いますよね。

股関節のちょい上の筋肉が重要って思えるまでに、十年とかやっぱかかるわけですよ。
自分の身体を使って試していく内に、肺も喉もお腹のインナーマッスルも理解をしてくる。やっぱり一朝一夕では身に付かないですね。"声節十年" とか言われてて「冗談じゃねぇ、十年なんか待ってられるか」って思ってましたけど、やっぱりかかりましたね。

師匠である福太郎師匠は木村八重子師匠(関東節を弾かせたら日本一、名人と言われた名曲師)など名人と呼ばれる曲師に弾いてもらうと、自分が急に上手くなった様な気になり、これが曲師の腕なのだと感じたと。
奈々福さんは(沢村)豊子師匠に初めて弾いてもらった時はどう感じましたか?

豊子師匠に初めてお稽古で弾いてもらった時は、「こんなこと有り得るんだ!」って。
雲の上の人だと思っていたので。だから、浪曲が上手くなった様な気がする以前に、その方が横にいて、私の為に三味線を弾いてくれるっていうシチュエーションにとにかくおののいてしまって。豊子師匠の音を50cmの距離で聴けるっていうのは、もう夢の様なことなんですよ!
ものっすごい美しい音色なんです。
くらくらしますから。
浪曲のおかげで立ち直らせてもらった
東京かわら版のインタビューで、豊子師匠に弾いてもらうことになった時ぐらいに、自分の中で潮目が変わったという気がしますとおっしゃってましたが、それまでとどう変わったんですか?

30年前、浪曲は二人の芸なのに、曲師の高齢化で先行きが危ぶまれていました。
そこで、広く教室として一般に開かれながら実は、プロの曲師を養成することを目的として協会主催の三味線教室が開かれました。
そこにうっかり参加したことがきっかけでこの道に入ったんですが、当初私はプロになる気は全然無くて。というか、なれると微塵も思っていなくて。(玉川)みね子師匠から、たまにはヤル気を見せて下さいって長い手紙をいただいたことがあるんですよ。つまり駄目な弟子だったんですね。最初に三味線の音を聴いた時から、大人になってから始めた私がこんな音を出せるわけない、プロになれると思ってない、届くわけがないと思って、最初から諦めるところから始まっていて、でもなんだか、福太郎の弟子になっている状況があって、師匠の三味線を弾かせていただいたりして、それは楽しいみたいな感じで。
あくまでお稽古事の延長線上みたいな。

修行する腹が据わっていないわけです。
だから三味線が全然うまくならない。
あんまり下手だから、師匠から「曲師は、浪曲師に声を出させる三味線を弾かなければならないのに、おまえは声とぶつかる三味線だ。一席浪曲をうなる側にまわってみて、どういうふうに弾いてもらったら助かるのか経験してみろ!」と無茶なこと言われて。
でも素直なもんだからとりあえず一席覚えて、師匠の指示で浪曲初舞台を踏むことになりました。でも、うちの師匠は私を本気で浪曲師にしようとは思っていなくて、あくまで曲師の勉強の一環として唸らせただけっていうスタンスでした。ところがその後に、先輩から一緒に勉強会をしないかって誘われて、師匠にうかがったら、受けろということだったので、やることになって。
それがきっかけで戦後放送浪曲の大看板であった国友(忠)先生と豊子師匠のところにお稽古にうかがうようになった。
うちの師匠も教えを乞うたようなキャリアの先生にマンツーマンで教われて、しかも豊子師匠に弾いてもらえる。
それって同時にすごい状況ですよね。

豊子師匠のおうちに最初にお稽古にうかがったときに、お師匠さんにやる気を問われたんです。
「アンタが二葉百合子くらいな看板になる覚悟があるんだったら、弾いてあげる」って。
そのとき私、「はい、なります」って言っちゃったんです。
言っちゃった言葉に、心が従わされたのかもしれないですね。

同じく東京かわら版のインタビューで、師匠である、福太郎師匠がいなくなって希望を失った後に、自分で希望を見つけるまでに至るまでが長かったとありましたが、その希望を見つけることになったきっかけはなんですか?
"自分が希望" にと思えるまでの。

師匠がいなくなったことで、ものすごい大きな穴が空いちゃって。
底の見えない奈落を見るような気がしました。
その穴は自分では絶対に埋められないって思っていて、浪曲を聴くのも嫌になっちゃったんですね。
ただ、うちの師匠のマネージメント的なこともしていたので、事後処理があるわけですよ。
師匠が亡くなって自動的に無くなったお仕事もあるんだけど、先方様から、奈々福さん代演しませんかと言っていただけたものがあって。みね子師匠にご相談したら、絶対受けるっておっしゃって、それなら……と私ごときがあろうことか師匠の代演をさせていただいたお仕事があったんです。ところが、代演して浪曲を演じている最中、現実を忘れられたんですね。
物語を生きて、演じ終わった後、ちょっと元気になっている自分を発見したわけですよ。
没頭したってことですね。

"浪曲の物語を生きることによって癒されたんだ" っていうのが大きいですね。
その後、続けて行こうって、自分自身を鍛えていくことによって、この世界で自分を支えにしていくしかないなって。
だから、浪曲のおかげで立ち直らせてもらったっていうところはすごくありましたね。
「浪曲の神髄は、荒ぶる魂」だと思いますとおっしゃってましたが、だからこそ、人の心に響くってことですよね。

色んな浪曲があると思うんですよ。
そんな中で、私は結構、乱暴者、オロカ者の浪曲が好きなんです。浪曲ってトンデモな人物が結構出て来るんですよ。それを、声節で "バーン" って聴かせちゃうような、すごく、ある意味乱暴な芸であるところが、なんかこう、小さな日常を打ち破ってくれるような破壊力っていうのかな、こう「聴いてスッキリした!」ってお客さんに思わせてくれるようなカタルシス(心の中に溜まっていた感情やストレスが解放され、心が浄化されるような状態)があるんじゃないかな。
日本浪曲協会の奈々福さんの自己PRでも、「明日の、あなたの、活力源でありたい」とありますよね。

その荒ぶるところが、自分で表現できればすごくいいし、お客さんがそれで、なんか鬱屈が少しでも晴れたような思いになって帰ってくれればいいなっていうのはすごく思います。

澤孝子師匠は、三味線の一番太い糸で、一の音である低い音にこだわっているとおっしゃっていましたが、奈々福さんだと、どの音の声にこだわっていますか?

今はどちらかと言うと、高い声よりも低い声ですね。
最初の頃は高い音を出そう出そうと苦労していました。
でも、それは声帯の問題じゃなくて身体の使い方でクリアできることがわかって。高い音ほどお腹を押して低くしていくっていう、それを死ぬほど一生懸命稽古して出るようになってきたわけですけども、今はどっちかって言うと、乙(低い声)。高い声は、鍛えれば出てくるんですよ。
低い声は、本当に身体が鳴ってこないと、身体が鳴るって感覚で、響かないと鍛えても出てこない。
その乙が響くようになるっていうのは、身体的に嬉しいんですね。
「あぁ、いま響いているな」って思えるっていう。
そんなに分かるんですね。

乙が響くようになりたいと思ってますね。
乙の声が響くと私も気持ちいいし、多分お客さんも気持ちいいんじゃないかな。
前はそれが分からなかった、乙の気持ち良さが身体が変わってくることで、分かるようになってきたから、ここのおもしろさをもう少し追求したくなってきたって感じですね。
芸というのは、世の中とリンクしているものなんだなと感じる
福岡・久留米のデイサービスの施設での会で、その時のお客さんの反応が物スゴくおもしろかったから、浪曲にしてしまったそうですが、どうおもしろかったんですか?
(この演目が「ある日の久留米の物語」)

デイサービスだから、主催者の方から「認知症の方もいて、途中でお手洗いに立ったりとかする方もいますけど、許してください」っておっしゃっていて。
それは私、全然OKなんです。
絶対浪曲を聴いている世代の方々だから、まず仲良くなろうと思って「浪曲を聴いたことありますか?」って聞いたら、客席、シーンとしてるんですよ。あれっ? て思って。気を取り直して、掛け声の稽古をして、あっためようと思って。
「掛け声かけてくださいね、浪曲師が入って来た時には、待ってました! ですよ、じゃあやってみましょうか、待ってました!」と、導くとおじいちゃんおばあちゃんたち、「待ってました!」とついてきてくれる。
「じゃあもう一回行きますね! 浪曲師が入って来たらなんて言うんでしたっけ?」
シーン……。
もう一瞬で忘れちゃうわけなんですよ。
そうなるんですね。

だから、あぁ困ったな、こんな感じかって不安に思いながら、でも始めちゃえと思って、古典の浪曲を始めたんですよ。「仙台の鬼夫婦」っていう、すごく美人で薙刀の名人のお貞が、駄目な夫を叩き直す物語なんです。演じていて、駄目な夫を叩き直したシーンで、いきなり、おじいさんが「よくやった!」って掛け声が(笑)。ビックリした。
そうか、ちゃんと聞いてくれていて、物語の中に入ってくれてるんだな、そして心の声が、だだ漏れになっちゃうんだな、と(笑)。

驚きますよね(笑)。

他にも、夫の仙三郎が賭け事でお金をすってしまったら「それはいかんだろ!」とか(笑)。
物語の終盤で幸せになったら「良かったね〜」って言ったり。
すごい自由に。
そうか、やってくれってやらされるのは全然覚えないんだけど、その物語を聴いて感動して、感想を言うのはダダ漏れ。
思わず私もそれに反応して、「良かったよね!」って言い返すみたいな、普段と違う場になったことが、あまりにもおもしろくって。
普通では起こり得ない状況ですよね(笑)。

そう、まず起こり得ないんですよ。
それから、「必ず15分に1回お手洗いに立つ」はずの方が、浪曲をやっていた1時間、まったく立たなかったんですよ。
看護師さんが心配する程。
よく聴いてくれて、びっくりしましたね。
聴いて、心が動いて、感じたことをそのまんま言ってしまう。
なんか理想的だよなってすごく思いました!
浪曲に心を動かされて、そのまんま純粋に出ちゃうってことですよね。

特養(特別養護老人ホーム)とかにも行ったことはありますけど、こういう反応は、ほんと初めての経験でしたね!
小沢昭一さんと(国本)武春師匠が語っていた「浪曲は貧乏な時代に受け入れられる」という言葉に、雑誌「東京人」の浪曲特集でも共感されていましたが、今の方がその時よりも、物価高だったり、世界では戦争があったりでより貧乏な時代にも感じますけど、いかがですか?

それはすごい感じますね。やっぱり芸というのは、世の中とリンクしているものなんだなとすごく感じるのは、私がこの世界に入った30年前、浪曲師になったのが25年ぐらい前かな。その頃は例えば、木馬亭で「瞼の母」とか悲しい物語をやっても、その時は図らずも泣いてしまう人がいたかもしれないけど、そこから木馬亭を一歩出ると、もうその空気は雲散霧消(雲や霧が消えてなくなるように、物事があっさりとなくなってしまうこと)しちゃうような。
バブル期が終わって、10年ぐらい経った頃ですね。

いくら浪曲って言っても、浪曲と世の中が全くリンクする余地がないような感じだったんですけど、今はすごいリンクしていて。
だから良い意味ではないけど、浪曲と世の中はつながっている感じがする。
喜ぶべきことじゃないんですけどね。
浪曲的にはリンクするから良いことだけど、複雑ですよね。

でも、人生は決して楽しいことばかりじゃないですよね。
浪曲って悲しみとか痛みに寄り添う芸能だと思うので、常にお客さんと響きあう部分はあると思います。
厳しいっていうのを知ってる人が多くなればなるほど、浪曲に対する共感は増えていく。
浪曲は、社会の下層から生まれてきた芸だから、そうなって来ている実感がすごくありますね。
今年(2025年)は芸歴30周年を迎えますが、昨年は、二足の草鞋だった会社員を辞めて浪曲一本で生きて10年でもあったわけですよね。
浪曲だけになったことでの充実感というか、それまでとは時間の使い方が異なるわけですが、そこはもう10年経ったなのか、まだ10年なのか、どちらに感じますか?

両方ともありますね。
あっという間だった気もしますけれど、やるべきことがいまだに全然できていないことへの「忸怩たる気持ちもあります。もっとネタを増やしたかったし、自分の芸に集中する時間をもっともっととるべきだったか、とも思う。でも、絶滅危惧芸能としては、とにかくお客さんを獲得していかないといけないと思うから、角度をつけた面白い会を開催すれば絶対お客さんが来る、だから面白い会をプロデュースしなくちゃ、と思って、あんなこんなやってきた10年だった、とも思う。時間が欲しいですね。
もっと稽古したいし、だから時間が足りない。
まだ10年、この10年にはもっともっとやりたいことがあったのにって気持ちです。
だから、まだまだこれからもたくさんやるってことですよね。

自分が動いているからのご縁があって。
動いてないとご縁は生まれない。