小佐田定雄

「 新作落語は、古典へと誘う入り口 」

小佐田定雄
  • インタビュー・編集:藤井崇史 / 撮影:古賀吉修

公開日:

小佐田定雄

小佐田定雄(おさださだお)

落語作家

1952年 大阪府大阪市生まれ

関西学院大学在学中は古典芸能研究部と甲山落語研究会に在籍。
1977年に桂枝雀に新作落語『幽霊の辻』を書いたのを手始めに、作った落語の数は280席を超えた。
近年は狂言、文楽、歌舞伎、講談、浪曲の台本も執筆。

【受賞歴】
1988年
上方お笑い大賞秋田実賞
1990年
第7回咲くやこの花賞(文芸その他部門)受賞
1995年
第1回大阪舞台芸術賞奨励賞受賞
2021年
第42回松尾芸能賞優秀賞

【著書】
「枝雀らくごの舞台裏」、「米朝らくごの舞台裏」、「上方らくごの舞台裏」、「新作らくごの舞台裏」など


小佐田定雄 公式X(旧Twitter)

来年で落語作家として五十年を迎える、小佐田定雄。
後世に残るであろう噺をたくさん世に送り出している。
桂米朝師匠や、桂枝雀師匠から受けた影響や、落語を作る上での、大事な要素とは。

古典から新作落語への価値観の変化

(桂)米朝師匠と、SF作家の小松左京先生がされていたラジオ「題名のない番組」は、リスナーから寄せられるハガキのレベルが高かったそうですが、小佐田さんも中学一年生の頃からハガキが採用されて、当時から今に通じる片鱗があったわけですよね?

小佐田定雄

僕はパロディが好きで、替え歌は得意だったんですよ!
SFが大好きな少年やったんで、小松左京先生は知っていたんですけど、その頃は、米朝師匠が落語家というのは知りませんでした。
小松先生の相手をしているおもしろいおじちゃん」って感じでしたね(笑)。

高校三年生の時に、初めて落語を生で聴いたのが 朝日放送の「上方落語をきく会」で、ものすごく豪華な会だったそうですね。

小佐田定雄

六代目 笑福亭松鶴、桂米朝、三代目 桂春団、桂小文枝(後の五代目 桂文枝)、桂小米、笑福亭仁鶴、二代目 桂春蝶というメンバーで、後になって思うと、すごい顔ぶれでしたね。

小佐田定雄

小米さんは、後の枝雀師匠ですよね。

小佐田定雄

そうですね。
「上手やな」と思って、注目するようになりました。
小米時代は繊細できれいな落語をしゃべってはったんです。
それが、枝雀になってからは動作が派手になって、目を寄せたり跳びはねたりで、襲名直後はあんまり好きやなかったんですよ。

枝雀を襲名してからの落語はあんまり好きやなかったとおっしゃいましたが、それでも追い続けたのは、小米時代とは芸風が変わってしまったけれど、更に変化するかもしれないみたいな期待があったからですか?

小佐田定雄

枝雀を襲名してから しばらくは全然行ってなかったんですけど、「枝雀の会」という新作落語の会をされるということを聞いて「どんなことをしはるんかな?」と気になって行ったんです。
その第一回公演での「戻り井戸」という噺を聴いた瞬間に「こんな新作もあるんや!」と価値観が変わりました。
この時までは、「落語は古典に限る」と思ってましたから、新作は好きではなかったんですよ。

それほど衝撃が大きかったんですね。

小佐田定雄

当時の新作落語は、「社長」「なんだい、鈴木君」なんて調子で、設定だけは現代にしてあるのに、口調とかやりとりの内容は古典の旦那と番頭そのままのものが多かったように思います。「それやったら別に新しくせんでもええのにな」と思っていて、「結局、落語は古典に限る」と思っていたんです。ところが、枝雀師匠の新作は、時代も場所もぼやかして、「いつでもあるけど、いつでもない」という、「これは落語やないとできない」というパターンでした。
この会に行ってなかったら、落語の縁が切れていたかもしれないです。
そのぐらい衝撃的でしたね。

談志師匠からの一言に救われた

枝雀師匠と知り合う前から、考え方は近かったんですか?

小佐田定雄

いえいえ、どんなことを考えてはるのかは 全く知らなかったですね。

緊張の緩和とかもですか?

小佐田定雄

枝雀師匠と初めてお会いした時に、「サゲってどう思いはる?」って聞かれて。
それで、「物語を終わらせるためのものでしょ」と答えたら、「いやいや、そういうことやのうて、そもそも笑いは緊張の緩和で、サゲには四つのパターンがありまして…」てな調子で数時間話したところ気が合って「うちに遊びに来なはれと」いうことになって、お家に行くようになったんです。

小佐田定雄

会社員を辞めて、専業の作家になる決心をしたのは、なんのあてもない仕事を引き受けても、締め切りまでに台本を仕上げてしまう度胸と、根拠のない自信が付いた時だと自伝でおっしゃっていましたが、その自信が付いたのはどんなきっかけからですか?

小佐田定雄

まだ専業になる前に、1986年から1993年まで開催されていた「雀三郎製(じゃくさんせい)アルカリ落語会」という新作落語の会があって、その会で(桂)雀三郎師匠に毎月新作を書いていたんですよ。
この時に「内容がええか悪いかは別として、毎月一本は書けるもんや」と。
その何年間が大きかったですね。

告知のチラシに掲載する為に、会の二ヶ月前に「題名」だけは決められていたんですよね?

小佐田定雄

先に題名があったから書けたんですよ。
「何でもいいから」やったら、不安なんですけど、とりあえず題名があったから、それをたよりに書き始められるんでね。

それでも、毎月一本作るのは大変ですよね。

小佐田定雄

大変でしたね。
全く何も無いところから作るわけですからね。
しかも、「できるだけ変な噺を」って言われてるから(笑)。

あと、米朝師匠からの言葉も転機になったんですよね?

小佐田定雄

ほんとは書く方を辞めるつもりやったんですよ。
既に家庭も持っているし、将来いつまで書けるかは分からへんわけで。
だから安心な方に行こうと思って。

ほとんどの方はそう考えると思います。

小佐田定雄

ただ、勝手に辞めるわけにはいきませんから、枝雀師匠も納得してくれへんやろうし、これは米朝師匠が「もう辞めさせたれ」と引導を渡してくれたらええやろと思って言いに行ったんですよ。
米朝師匠は人の意見に必ず逆を言いはるから、思ってる逆のことを言うたんです。
「師匠、会社勤めを辞めようと思うんです」と。
そしたら、「うん、それもええな」って言われたから、今さら「会社を辞めるのやめます」とも言えなくて。
だから、枝雀師匠はめちゃくちゃ喜んでくれはりました(笑)。

そこで作家を辞めなくて良かったですね。

小佐田定雄

今となっては、米朝師匠が「大丈夫や、心配せんでもええから、こっちの世界に来い」と叱ってくれたのだと思います。

小佐田定雄

でも、枝雀師匠が亡くなった時に、落語を書くのを辞めようと思いかけていたそうですね。

小佐田定雄

一番気が合うというか、一緒に作っていた師匠やし、一番話もできた方やったんで、師匠とお別れした時に、神様が「もうええで」って言うてくれたんかなと思うたんです。

そんな落ち込んでいる時に、(立川)談志師匠から声を掛けられたことで救われたそうですね。

小佐田定雄

会う人が皆さん「枝雀さん、大変でしたね」って言うてくれはるんですけど、談志師匠は何事もなかったように「よっ、元気か!」って普通に話してくれました。その時に、"ふっと" 気が楽になって。その一言が「落語家は枝雀だけじゃねぇぜ」と言ってくれたように聞こえたんです。
その時に気が付いたんです。
「そうや。枝雀師匠は居られなくなっても、上方にも東京にも落語家はまだぎょうさん居てはる。米朝一門だけでも(桂)南光師匠、(桂)雀三郎師匠。ほかの一門にも居てはるやないか」と。
その一言があるまでは、周りが全く見えてなかったんです。

その一言によって救われたと。

小佐田定雄

他にも、それまであんまりお付き合いしてなかった落語家さんから「これまでは枝雀師匠の力で笑わせてたけど、これからはいよいよ小佐田はんの力で笑わせられるかどうかの勝負になりまんな」と言うてもらいました。
それも嬉しかったですね。
「あっ、そういうことか。そんなに思い詰めなくても、ここから広げていけるんやな」と気付かせてもらいました。

笑ってもらうこと、おもしろがってもらうこと

落語を作る上で、古典芸能を勉強されてきたというのが大きいですよね?
噺の時代に合わせたり、当時の考え方と、現代の考え方の違いを取り入れたりできるというのが。

小佐田定雄

それは、米朝師匠から色々と教えてもらいました。
例えば、「江戸時代のことをやろうと思ったら、能を勉強しなさい」と言うていただきました。
「江戸時代の洒落は能が元になっていたりするから、原典の古典に戻っていかなあかんねん」って。
勉強はできなかったけど、能の本だけは読みました。
それが元になってシャレを作ったりするから、古典って元に戻っていかなあかんねんって。
「落語を書くにしても、落語だけ聴いていたのではあかんねん。能狂言や歌舞伎、文楽を観たり、講談も浪曲も聴くようにしなさい」と。
米朝師匠は奉行の台詞なんか、アドリブで喋っても出てくるんですよ。
それは、講談や歌舞伎とかで知っている言葉の貯蓄があるから。

その貯蓄の差が大きいということですね。

小佐田定雄

それを言われてたんで、若い頃から、古典芸能をむやみやたらに、聴いたり、観に行ったりしてました。
それが後に活きることになりましたね。

小佐田定雄

江戸落語を上方化する時に入れられる、上方落語らしさはどんなところですか?

小佐田定雄

噺の間に「ハメモノ」といってお囃子が入ることと、侍があんまり出て来ないとこですね。
侍というたら奉行所と蔵屋敷の役人ぐらいしか居てないから、普通に町もうろうろしてたんやろうけど、落語の世界に参加はして来ないということはあると思います。
後は、経済を考えると、あんまり見栄を張ったりはしない、実利を取って、お互いが得するようにするから、大阪では「三方一両損」なんて話は成立しないわけですわ。
町人の暮らしの考え方も江戸とは違って、江戸は職人の世界で、大坂は商人の世界というような具合で。
それは、江戸の落語を上方に持って来る時も、それは気を遣うというか、ただ言葉を大阪弁に変えたらいいだけではないんですよ。

江戸ではなくて、大阪の価値に合わせるってことですよね?

小佐田定雄

言葉だけを大阪弁にするだけやったら、翻訳にもなってない。
ただ言葉を変えただけではあきません。
翻訳なら、ちゃんと中身も変えないと。

上方だと、特に、お囃子を使えるというのが大きいんでしょうか?

小佐田定雄

ただ、何でも入れたらええわけじゃなくて、入れ過ぎると逆に、「またか! うるさいな!」ってなってしまうんですよ。
効果的にポンと入れると効いてくるんです。

どのくらい音を入れるかとかも、ありますよね?

小佐田定雄

古典の噺を聴いていると「この噺は入り過ぎているな」とか、「これはええ塩梅やな」とか参考になりますね。
古典として残っている演出は、ええ具合のが残っているんですよ。

それは割合が合っているってことですよね?

小佐田定雄

ピッタリなんです!
「きっかけ帳」という、昔のお囃子さん(三味線弾き)の帳面が残っているんですよ。
それを見ると、やっていく内に消えていった曲もたくさんあるんです。
噺によって、前半のお囃子を無くすことで、後のお囃子が活きてくることがあります。
例えば「たちぎれ(たちぎれ線香)」は、最後に一曲だけ入るんですけど、昔は前の部分にも入っていたんですよ。

そうなんですか?

小佐田定雄

それを先人が省いたんですよ。
前があると、後ろの曲が効かんようになるから。
それが大正解だったんですけど。
そういうのを見ていると、これが "古典に学ぶ" ということなんですよ。

小佐田定雄

落語の台本を作る時に、一番盛り上がるところから書き始めるそうですが、作り始めた当初からずっとこのスタイルですか?

小佐田定雄

「この状況がおもしろいな」という設定を思いつくと、「この状況にするのにはどうしたらいいか」をさかのぼって書いて、そのあと「この状況の後どうなるか」を書くんです。
サゲから作るということは滅多にないですね。

逆から戻るよりも、一つ支点を決めておいて作っていくってことですよね。

小佐田定雄

そうですね。
前はどうでも付けられるし、後ろも「この人やったらどうするかな?」って、想像するんですよね。
でも、書いていく内に、最初に思いついた設定よりもっとおもしろいことになることがあるんですよ。
それはそれでラッキーという作り方ですね。

「もっともらしく」することが落語にとって大事だとおっしゃっていますが、「もっともらしく」は当初から意識されていたことですか?

小佐田定雄

おそらく一番大事なことでしょうね。
舞台に何もなく、座布団に演者が一人座って喋っているだけやから、どこかに誠しやかな言葉が一言入っていたら、もうそれだけでお客さんは信用してくれるんですよ。
でも、逆に一つ不自然なところがあったら夢が覚めて、「ああこれは嘘や」と気付かれて聴き手の心が離れてしまいます。

噺の世界ではなく、現代に戻ってしまうからってことですよね。

小佐田定雄

古典でも、米朝師匠が「これは享保の時代の噺です」って言うと、全部嘘の噺なはずやのに、全部ほんまの噺に聴こえてくるとか。
そんなとこは、落語の一番すごいとこやなと思います。
お芝居であれば衣装とか大道具とかも全部変えないとあかんし、そう簡単にはいきません。
その点、落語は言葉だけやから、一言「これは享保の噺や」と話したら、全部世界が出来てしまうんですよ。
そういう意味でも「誠しやか」というのは大切なことなんです。

小佐田定雄

落語を作る際に、どこに一番重点を置かれていますか?

小佐田定雄

笑ってもらうこと、おもしろがってもらうことですね。
"新作落語は古典の入り口" ですから。
入り口やからこそ、一番おもしろくしないとあかんのですわ。
「新作だから辛抱してください」やなしに、「新作だからおもしろいですよ!」にせなあかん。
「新作もおもしろいんですけど、実は奥にもっと洗練された古典というものもありまっせ!」というのが、新作の役目やから。
だから、まずおもしろくなかったらあかん。
なんとかして、一回でも多く笑ってもらおうと考えるわけですな。

その笑いをどこに持って来るかが重要ってことですよね?

小佐田定雄

そうですね。
以前は噺の前半は仕込みの部分にして、奥の方で笑わせる感じやったんですけど、この頃は、できるだけ最初の方から笑いをとるようにしています。
ただ、噺によっては、最後の方まで笑いが起きない作りもありますけど、できるだけお客さんに負担を掛けないように早く世界観に入ってもらって、共感してもらえたらええと思います。

「米朝らくごの舞台裏」の本で、演者の口調に合うように演者が仕立て直して、高座に掛けてもらうことが、いい落語台本の要素だとおっしゃってましたが、これに気付いたのは、いつぐらいですか?

小佐田定雄

それは最初に枝雀師匠と会ってますから、全部あの師匠の口調になりますよね。
こちらはアイデアを出してますけど、それをおもしろく表現するノウハウは枝雀師匠の方が分かっているわけです。
その実力の差は絶対的に違うわけで。

小佐田定雄

作者と演者の違いですよね。

小佐田定雄

だから、その点は演者さんの自由にお任せしています。
未だに、僕の作品を演じる噺家さんから、「変えてもいいですか?」と言われるんですけど、「変えなあかんで」と伝えます。
台本通り一言一句変えずに演じられるのは一番困ります。

自分にとってやりやすい様に変えてもらうってことですよね。

小佐田定雄

上手く変えてもらって、より楽しくなればそれで十分です。
明らかに間違っていたり、そのやり方は損やと思うた時だけは言いますけど。

落語作家になって、もうすぐ五十年

小佐田さんの作品は、元々古典としてあったかの様で、全然違和感がないですよね?

小佐田定雄

宝塚歌劇団で古典落語の世界を元にした作品を上演する時に、宝塚から「作品の中に貧乏神のビンちゃんが登場するんですが、" 貧乏神 " が先生の作品とは知りませんでした」って言うてきてくれたこともありましたね。
「古典と間違えてくれることは有難いけど、そんなに古くさい感じがするんやなあ」とも思う一方で「無理に今の時代に合わせた新しいことやらんでもええのやないか」という思いもありつつ、時には 思いっきりぶっ飛んだ「わいの悲劇」みたいな無茶苦茶な内容の作品を出したり、その振れ幅は絶対に必要やと思うんです。

火事場盗人かじばぬすっと」とか、すごくいい噺ですよね。

小佐田定雄

ここだけの話ですけど、泣かせる噺はラクなんですよ。
泣かせるツボが分かってますから。
逆に、笑い続けさせるのは一番大変なんやけど、楽しいんです!

来年で、新作落語を書き始めて「五十年目」になりますね。

小佐田定雄

ようやってるなって思います(笑)。
最初に一本作ったあと枝雀師匠から「もう一本ぐらい作れますやろ」て言われてもう一本作って、三本ぐらい作った時に、客席からもう一人ぐらい「僕も書けますねん」って、作る人が出てきて、その人に任せて客席でゆっくり観るつもりやったんですよ。
それが誰も出て来おへんかったから(笑)。

小佐田定雄

でも、初作の「幽霊ゆうれんの辻」は代表作の一つであり、未だに評価が高いですよね。

小佐田定雄

「あれが一番ええ」って言う人がいっぱいおりますからね。
ジェットコースターみたいなもんで、一番最初に高いところから出発して、後は惰性で走ってるみたいなもんです。
「幽霊の辻」は三代目(桂)春團治師匠の「皿屋敷」が大好きで、暗がりの中を一人で歩いている恐怖感…みたいなものが描けたらいいなと思ったのが元なんですよ。
BGMに陰気なお囃子を入れてね。
サゲはアメリカの小噺です。
今見ると、台本は原稿用紙10枚ぐらいで、スカスカなんですよ。
だけど、そのほうがみんな演りやすいんですよ。
「自分やったら、ここにこういう工夫が入れられるな」とか、アレンジしやすい台本なんです。
落語の台本は演じる人が手を入れる隙がある台本のほうがええんやないかと思います。

詰まっている方がいいのかと思っていました。

小佐田定雄

ガ ッチリ詰まっていたら、落語家さんの工夫のしようがないんです。
いろんな人が手を加えてきた作品が古典落語になったんやと思いますねん。
最初からあんまり完成度の高い噺やったら、誰も手が出せないんですよ。

だから、現代に残らなくなった噺があるんですよね?

小佐田定雄「あの噺は、あの名人の十八番やから!」ってなったら、ほかの演者は遠慮して誰も演らなくなります。
その内にその名人が亡くなってしまって、昔やと録音機も無いから噺そのものが滅びてしまうってことがあったんです。

未だに、自分の作った噺が「どう演じられるか、ワクワクする」というのは尽きない感じですか?

小佐田定雄

今でもワクワクしてますよ。
ただ、作らないでいたらつい怠けてしまうということが分かったんです。
一昨年なんか年に二席しか作らなくて「これではあかんな」と気が付いて、無理にでもを脳を動かそうと、昨年から(桂)雀喜さんと一緒に新作落語を隔月に作る会「小佐田博士と長坂教授~落語実験ラボ」を始めました。
それで昨年は八席作ったかな。
「これならまだいけるな」と分かったんで、現在も継続中です。
あかんようになったら辞めたらええんやさいかね。

後世に自分の作品はどうなっていって欲しいと思っていますか?

小佐田定雄

いずれ誰が作った作品か分からんようになるとおもしろいなと思います。

若い頃に「今はネタの肩に小佐田定雄作というのが付いてますけど、いずれはそれが取れて古典みたいになったらいいのにと思ってます」と言うと、先代(三代目)の文我師匠に「百年早い」と叱られたそうですね。

小佐田定雄

やっと意味が分かりました(笑)。
けどまあ、これからの時代は著作権の問題もありますから、作者の名前もしっかり明記せなあかんのでしょうね。
枝雀師匠は「ひょっとウケへんかった時に "私には責任おまへん。小佐田はんの責任です" と言い訳するためにも作者名は明記せなあきません」と洒落半分でおっしゃってました。
けど、「誰が作ったかは分からへんねんけど、ええな噺やなあ」って言われるのも魅力的ですなあ。

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