瀧川鯉昇
「 師弟関係は "縁のもの" 」

- インタビュー・編集:藤井崇史 / 撮影:トモヒサアル
公開日:

瀧川鯉昇(たきがわ りしょう)
1953年生まれ、静岡県浜松市出身
- 【芸歴】
- 1975年04月
- 8代目 春風亭小柳枝入門 前座名 柳若
- 1977年01月
- 春風亭柳昇門下へ
- 1980年02月
- 二ツ目昇進 愛橋に改名
- 1990年05月
- 真打昇進 鯉昇に改名
- 2005年01月
- 瀧川鯉昇に改名
- 【受賞歴】
- 1983年
- NHK新人落語コンクール最優秀賞
- 1985年
- 国立演芸場金賞銀賞のつどい大賞
- 1986年
- にっかん飛切落語会 奨励賞
- 1987年
- にっかん飛切落語会 奨励賞
- 1996年
- 文化庁芸術祭 優秀賞
カバンの中に、旬の野菜
趣味が、旅行ですよね。
全国各地の落語会に出演されていますが、旅行だと、どこの地域がお気に入りですか?

旅行だと、時間があれば、岩手から青森へ行ったり、仕事ではほとんど行かないところですね。
北海道だと礼文島にも行きましたね。
若い頃から旅行に行かれていたんですか?

僕らの頃は野宿が当たり前で(笑)。
寝袋を背負って、その中に下着が2枚、手拭いが2、3枚、歯ブラシ、石鹸。
そのぐらいで旅行に行くんですよ。
東北北海道で、急行列車、夜行列車も含めて全部乗れる、一ヶ月間の周遊券があったんです。
それから、当時は国鉄のバスがありましたので、それも乗れるんで、時間は掛かるんですけど、かなり移動はできましたね。
自分のパワーの減退を感じた時は、スーパーに行かれるそうですね。

食べ物の好き嫌いが結構あるというか、肉と魚をあまり食べる習慣がなかったんで。
だから、今でもそうですけど、とんかつが月に一回、モツ焼きだけは週に一回、焼き魚が、月に二回ぐらいで。
あとは、全部植物性たんぱく質ですね、お豆腐系で。
でも、お医者さんは、それでも栄養は足りてますと(笑)。
卵と大豆系でしっかり栄養を取れていれば。

地方へ行っても、スーパーに行かれるそうですね。

生まれた家が貧乏なんですよ。
田舎ですから、土地だけはありまして。
食べる物は困らないんだけど、購買力がないわけなんですよ。
そのままで育って来たものですから、土地柄でお茶はあって、それを家で飲むという習慣があるわけですよ。
なので、ジュースという類の、買わないといけない物はほとんど習慣としてないんです。
缶コーヒーとかコーラって、糖分が多いじゃないですか。
それが嫌なんで、旅へ行くと、どこの街でもだいたい駅の近くにスーパーがあるんで、夏は「トマト」と「きゅうり」を買って来て、それをジュース代わりにカバンに入れてますね。
だから、カバンを開けると、「トマト」と「きゅうり」があるから、「なんだ、お前は!」って(笑)。
還暦を過ぎてから、本を読まれるようになったそうですね。
それまでは、機会がなかったってことですか?

田舎育ちなもんですから、天気が良くて明るい間は全部外で遊ぶっていうのがあって、噺家になってからも、明るい間は家に帰ろうという気がしなかったんですよ(笑)。
本を読むようになってから、考え方とかにも変化はありましたか?

十代とか、もうそういう頃から読んでおけば良かったなって思います。
本を読む習慣があれば、何か違ったかなと感じますね。
周りを見ると、噺家って、意外と読書好きな人が多いんですよ。
でも、両極端ですね、文字が嫌いな人と。
ただ、師匠の柳昇が言ってましたが、本を読むのは知識としてはいいけど、信じちゃいけないよと。
あくまで考え方の一つってことですよね。

そうですね。
だから、楽屋ってそういう所だから、十人十色じゃなくて、百人居たら百人分違いがあるから、上の者には逆らえない世界ですから、先輩が言っている話には「はい」って聞いて、それをやる必要はないんで、この人はこういう考え方なんだなっていうのが分かればいいし、何かの時に、この人の感性が丁度いいかなって思うぐらいで。
そういう風に人の話は聞くもんだぞっていうのが、柳昇流でしたね。
鯉昇さんは、大の浪曲ファンだそうですが、好きなったきっかけはなんですか?

テレビはなくて、ラジオの時代で、ラジオが家に一台だけあって、チャンネルの決定権は祖父なんです。
だから、娯楽時間は祖父の趣味時間になるんですけど、それが、"浪花節" と "講釈" の演芸番組だったんです。
昨年、奈々福さんからの依頼で、浪曲を初めて一席されましたね。
今年の「芸協らくごまつり」でも披露されましたが。

落語で言うところの「じゅげむ、じゅげむ」みたいな、触りの部分が耳に残っていて、ちょっとお酒が入った時に、浪花節のそういう節(歌のこと)が出てくるんですよ!
「旅~ゆけばぁ~」って。
それを酔っ払ってやってたら、奈々福さんから「ゲストでやってください!」って。
単なる酔っ払いの遊びだからって言ってたんですけどね(笑)。
高座でどこまで黙っていられるか

「何があっても驚いたり、腹を立てたり、慌てたりしない」というのは、最初の師匠である、八代目 小柳枝師匠の元で培われたそうですが、それはやっぱり、破天荒な経験を味わったことによるものですか?

田舎から上京して来て、ラジオの時代だったもんですから、落語界のことも調べるとか何にもないわけですよ。
だから、入門した師匠が全てなわけです。
その師匠が、落語家の中でも珍しい行動をしている方だっていうのを知るのは、もっと後になってからでしたね(笑)。
だから、何があっても不思議じゃないみたいな。
それが当たり前だったから、少々のことでは動じなくなったってことですよね?

入門してすぐに、師匠が謹慎と入院でしたから。
いくつもの出来事がありますが、例えば、もうすぐ廃業するから、お前に付き合えるのはあんまりないから、今日は稽古するから家に来いってなったんです。
でもまだちょっと日が明るいから、御徒町のガード下の酒屋で蕎麦焼酎を軽く飲んで、それから、稽古が終わったら家でを食うのに、アメ横に行って、イワシを20匹ぐらい買って、持ってろってカバンの中に入れて。
そこで、蕎麦焼酎で4時間ぐらい飲んで、もうベロベロですよ。
そこから、今度は阿佐ヶ谷に行って、行きつけのところで飲んで、それで野宿ですよ(笑)。
朝になったら歩いて家に帰って、その足で寄席に行って、カバンを開けたら、昨日のイワシが出てくるっていう(笑)。
「何があっても驚かない」とかはそういうことですよ!
こんなことばっかり経験すると、そうなりますよね。
小柳枝師匠への弟子入りの許可が下りるまでの一年半と、小柳枝師匠が廃業して、柳昇師匠の一門に入るまでの約一年、この不安の中で、どう考えていましたか?
不安を抱えた状況での一年はとても長く思えますが。

小柳枝は破滅型の芸人なんで、「お前が弟子を抱えて、どうするんだ」って、六代目(春風亭)柳橋師匠の許可が下りなくての一年半だったんですね。
小柳枝が廃業して、柳昇の所に行く時に、「私は辞めるから、弟子をよろしくお願いします」って言えばいいのに、私は辞めるんで、弟子はどうするって言ったら、残りたいって言ってるんで。
どこ行きたいんだ? て言ったら、写楽(後の、三笑亭可楽)のところへ行きたいって話をしたら、うちはいらないって。
(三遊亭)右女助も弟子は取らないって。
「行くところがないんで、それじゃあ、兄さんお願いします」って、柳昇からすれば、一番初めに来なかったことが、おもしろくないわけですよね。
それで、ムッとしたまま一年間は口を聞いてもらえなかったですね。
そこから、口を聞いてもらえるようになったきっかけはどんなことからですか?

象徴的な出来事としては、楽屋に寿司が届くと、必ずインスタントの吸い物が付いて来るんですが、誰も手を出さないんで、僕は貧乏性だから、それをカバンに入れて取っておいたんですね。
ある時に仕事先で、柳昇と(三遊亭)金馬師匠が一緒の時に、楽屋で出たお弁当に、金馬師匠が「こういう時は、お吸い物の一つでも付けてこなきゃ」と言ったんです。
その時に、僕が吸い物を湯呑みで金馬師匠に出したら、「柳ちゃん、いい弟子を取ったね〜!」って。
大きくは、それからですね。

前座の頃に、ボードビリアンの芸を観て大感動したそうですが、どんなところに感動されましたか?

笑いが起きるまでは、ずっと同じ姿勢でいるんですね。
それで、1分、2分と。
「無言」で笑いを取るというのを観て、すごい芸があるんだなと思いましたね!
そこからヒントを得て、「高座でどこまで黙っていられるか」につながったわけですよね?

それもあるんですけど、半分言い訳で、体力がなくなってきたから、いきなりは喋れないから、呼吸を整えているんです(笑)。
浅草の寄席だと、僕が高齢につき、絶句しているんだろうと思って、「ガンバレー ! しっかりー!」って声が掛かったりも、年に何回かありますね(笑)。
その呼吸というところで、自分にあった "呼吸" はどの時期ぐらいに確立された感じですか?

やっぱり二ツ目になってからですかね。
そういうのって、なんとなくそうかなって分かって来た頃は、実はものすごく体力が落ちている時なんですよね。
今までだと一息で言えたセリフが言えなくなってという、そういう話は、名人の(古今亭)志ん朝師匠からも伺ったことあるんです。
「段々一息で言えなくなってさ、今」とか、「啖呵なんか、ここまで一息で言えないと駄目なんだけどね」って。
当時は、そうなんですかって聞いていたけど、そういう呼吸が自分でも分かる頃には、同じく一息で言えなくなってきてることに気が付いたんですよね。
似た感じで、間というところだと、柳昇師匠は、間を大事にされていたんですよね?

「喋っているセリフとセリフの行間に味があり、芸があり」という風に僕ら言われましたね。
あと言っていたのが、声を伝えないといけないんだけど、「元気な声」と「大きな声」の違いが分からないやつが近年多くなったねと。
要するに、「元気な声」っていうのは明るくなるんだけど、「大きな声」は威嚇だと。
怖がるだけで。
寄席っていうのは、お客さんを怖がらせてどうするんだっていうのが、柳昇流なんですよ。
似ているけれど、違うってことですよね。

他にも、表情ですね。
お客さんを怖がらせないように、顔に力を入れないようにする為に、どれだけ俺が力を入れているかっていう。
顔のここ(眉間の辺り)の力を抜く為にどれだけ疲れているかって。
それを教えてくれましたね。

それは、かなり意識してやらないとできないことですよね?

だから、病的ではなく、笑顔で力を抜くのはものすごい疲労だって言ってましたね。
落語よりも、そういうことを言いたかったんだなっていうことですよね。
噺ではないところでの、テクニックですよね。
昇師匠以外の師匠から言われた、寄席においての印象的な言葉はありますか?

橘つや師匠って三味線の名人で、僕らお世話になったんですけど、僕が小柳枝のところに入っちゃったもんだから、それはしょうがないと。
それはしょうがないけども、「楽屋で小言を言われたり、お前みたいなドジなやつは毎日色んなことを言われるだろうけど、人を恨んだり、悔しいとかっていう、そういう気持ちはどっかに閉まっておいて、絶対表に出すんじゃないよ」って。
「あのね、お客さんは楽しみに来ているんだから、お前が苦労している話なんかどうでもいいんだよ」って。
「お前がバカバカしいことをしているのが、お客さんの楽しみなんだよ」って。
お客様を怖がらせちゃいけない
鯉昇さんの落語は、お客さんが疲れないことが基本で、娯楽だから、アハハと笑って、熟睡できるのが一番だとおっしゃっていますが、そういう考えになったのはいつぐらいからですか?

全部同じところに行き着くのかもしれないですけど、お客様を怖がらせちゃいけないっていうことですね。
だから、リラックスさせて、リラックスの行き着くところは睡眠ですよね、きっと。
例えると、団地で、娘が習い事でピアノの練習するんだけど、近所から、「うるさい」って苦情が来てトラブルになる。
その原因は、音が外れるから喧嘩になるわけで、喧嘩にならないように、今週はレコードを掛けると、苦情が来ないという(笑)。
だから、人間は不協和音に対して、異様な不快感を抱くんだと思うんですよ。
落語も同じで、ヘタだから目が覚めるんで。
きっと名人なら熟睡できるんじゃないかって(笑)。
一定のテンポだったり、リズムがいいからってことですよね。

ほんとはいけないと思うんです。
芸人としての努力というのは、できないことができるようにならないと努力じゃないんだけど、できないことで、お客さんに変だなって思われるよりも、抜いても成り立つっていう逃げの方の感性なんで(笑)。
だから、そうしろとは言わないんだけど、そういうやり方しかできないなら、それでもいいよっていう風に。
できるなら、ちゃんと教わった通りやりなさいなんですけどね。

古典をどういう考えで、アレンジしようとなるんですか?
例えば、「千早ふる」だと海外の地名とかも出て来たりしますが。

僕は器用な方じゃないんで、教わった通りできないから、そもそもは、どうやって誤魔化そうかというのが始まりですね。
「千早ふる」のアレンジは新潟の学校寄席がきっかけなんですよ。
「千早ふる」をリクエストされていて、ただ、小学生相手なので、「千早ふる」の噺の中で吉原じゃない内容を考える必要があったんです。
質問コーナーで、小学生に吉原のことを聞かれた時に、説明はできないので。
ネタバレになるので、全部は話せませんが、モンゴル相撲で構想を練っている時に、三浦雄一郎先生(登山家、獣医師)の話を思い出したんですね。
それで、チョモランマからどんどんエスカレートしていったというようなアレンジにしました(笑)。
今でこそ珍しくないですが、古典落語をアレンジして、現代的なことを入れるというのを、鯉昇さんは先駆けてされた一人なんですよね?

昔は十八番っていう、この師匠がこの噺をしていたら、その時代の他の人はやらないんですよね。
だから、その師匠が変えない限りは変わっていかないけれど、亡くなられたり、「芝浜」みたいに、みんながやるようになって、考え方をちょっと違うところに持っていったり。
賛否両論かもですが、できないものを無理する必要はないし、自分が聴いて分からないものを表現することは返っていけないんじゃないかっていうのと、落語をよく知らないから、自分が楽しくやる為にというのと、刺激がないと忘れちゃうので。
自分で気付くということ
お弟子さんは温かく見守りながら育てるそうですが、当初からこの方針だったんですか?

そうですね。
全部柳昇流のところがあるんですが、特にですけど、柳昇も怒らないようにしていて、絶対手を出すなって。
「噺家になりたいんだったら親を説得して、親がよろしくって言って来たら、弟子にしてやる」って柳昇流なんです。
喋る商売だから、まず親を説得できない奴が、客を説得できるかっていう。
それに、口喧嘩で負けるようなら喋る商売が向かないからって。
あと、基本的なことなんですけど、「はい」と返事がまずできるかどうかもですね。
だから、僕も弟子に、そういう話はするから、「はい」って言えなくなったら、この商売は向かないからって。
落語をやってても意味ないから、国へ帰んなっていうしかないですね。
それをお弟子さんに伝えられたことはあるんですか?

自分の一門でも、辞めていったのも何人か居るんだけど、国へ帰れと言ったのは一人もいないですね。
勝手に辞めますって言うから、引き留めもしないですから(笑)。
それは、(入船亭)扇遊兄さんと話していると、師弟関係って "縁" のものだからって。
だから、師匠と合わないっていうのは、どうも縁がなかったってこの道を去るしかないと思うねっていう話をするんですけど。

縁ってところで、男女の縁だと、お見合いを80回重ねられた話が有名ですが、最終的には、お見合いではなく恋愛結婚だったそうですね。
結婚して良かったなと思ったのは、どんな時でしたか?

それは、かみさんが亡くなってから(2019年に他界)、余計に感じますね。
亡くなってから気が付くのと、縁のものだから、欲しいったって、来なきゃ来ないんだけど、もっと前にそういうことに気が付いていたら良かったかなとは今になって感じますね。
柳昇流だと、結婚するのも早い方がいいというのは、所帯を持って、責任を感じるその感性を早く持った方が、芸に真剣に取り組むっていうことを言いたかったみたいですね。
八代目 小柳枝が破滅型だったから、余計に、心配する家族が居なきゃ駄目だろうっていうようなことだと、今思うとそういうことだったんだろうと思うんです。
先程おっしゃっていましたが、柳昇師匠からなかなか弟子の扱いをされていなかった頃に、機転の良さで信用を得ることになったと。
相手に、どうすると喜ばれるのかみたいなところは、なかなか言葉では教えきれなくて、お弟子さん自身での気付きでもあるから、その辺りはどう教えられるんですか?

それも柳昇流なんですけど、挨拶ってこういう風にするもんだって、これは日本語を喋り始める環境の時に、周りに居る人を見て覚えるから。
だから、その挨拶の仕方が、元々身に入ってないっていうのは、俺が今いくら教えても、俺が言っている時だけはそうすけど、俺が居ない時は全く感性の中に無いから。
だから、自分が気付かなかったらそれでもう終わりだねって。言って覚えるもんじゃないからって言ってましたね。なんで、俺のとこに仕事が来なくて、あいつのとこに来るんだろうって思った時に、そうか、あいつは愛想がいいんだねって気付くだけでもいいですし。
何を言われても「はい」って言っているとか、そういうとこに気付かない奴は、この協会で嫌らしくてもしょうがないねって非常に冷たいですよ。
非常に的を得ている気がします。
その言葉に対して気付けるかどうかになりますよね。

その人の感性というか、センスだからですね。
それがない奴はしょうがないです。
廃業しろとは言わないけど、恵まれないかもしれないよっていうのはありますね。
鯉の滝のぼり
「瀧川鯉昇」を襲名してから20年以上が経過しました。
柳昇師匠からは、亭号を変えることを認められなかったそうですね。

初めから、"瀧川鯉昇" にしたかったんですけど、柳昇がシャレなのか、本気なのか分からないですけど、「そんなに俺のとこに居るのが嫌なのか」って言われて。
そんな、名前一つでと思ったけど、そこは、おかみさんが間に入って「あんたが継ぐんじゃなくて、当人が継ぐんだから、当人が嫌な名前を継いでどうするんだよ」って言ってくれて、じゃあってことで妥協案で、師匠の春風亭柳昇を一字だけ変えて、春風亭鯉昇にと。
瀧川でなければと折り合いが付いたんです。
襲名は、師匠である、柳昇師匠が亡くなられて2年後(2005年)ですが、瀧川に変えようと思ったのはどんな意志だったからですか?

「鯉の滝のぼり」というシャレ名ですから。
春風亭だと意味が違うから、本来の名に。
それに、"瀧川鯉昇" は新しく作ったわけではなく、元々存在していた名前ですから。
今では、瀧川一門で、お弟子さんが13人に、孫弟子までいて、大所帯ですよね。

これも全部、柳昇流ですよ。
多い方がいいですし、縁があった時が出会いって、そういうもんだからと。
こっちが欲しいからって、弟子なんか来るもんじゃないからって。
「弟子にしてください!」って来た時が縁だぞっていう、それが柳昇流ですね。
現在73歳ですが、還暦を迎えた頃は、噺に対して遊び心が抑えられなくなったと自伝でおっしゃっていましたが、その後、どう心境は変化していきましたか?

それがここ3年ぐらいですかね。
コロナ禍もあったからかもしれないですけど、ウケないことに対して、慌てたり、焦ったりはしなくなりましたね。
だから逆に、ウケてないけども、きっと、昔につや師匠に言われた、「いい顔」をしているのかもしれないですね!
苦しんではいないってことだから(笑)。

