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笑福亭たまインタビュー

「 大阪弁の言葉の味わいは"七"と"五"のメロディ 」

  • インタビュー・編集:藤井崇史 / 撮影:佐藤浩

公開日:

笑福亭たま

笑福亭たま(しょうふくていたま)

1975年1月6日、大阪府貝塚市生まれ

1998年3月 京都大学経済学部を卒業。
1998年4月 笑福亭福笑に入門。
現在、上方落語の定席「天満天神繁昌亭」にて、毎月古典と新作、ショート落語を発表する「月刊笑福亭たま」を開催。
また、初心者から好事家まで楽しめる独演会を東京・大阪・名古屋・松山でも開催中。
(東京:年6回、大阪:年4回、名古屋:年4回、松山:年2~3回)
2023年2月13日 貝塚市観光大使に就任

【受賞歴】
2003年 大阪舞台芸術新人賞受賞
2004年 文化庁芸術祭新人賞
2004年 大阪文化祭賞奨励賞
2007年 第1回 東西若手落語会コンペティション優勝
2008年 第2回 繁昌亭輝き賞
2009年 第4回 繁昌亭創作賞
2009年 第46回 なにわ芸術祭新人奨励賞
2010年 咲くやこの花賞
2011年 第48回 なにわ芸術祭新人賞、大阪市長賞、大阪府知事賞、大阪製紙賞
2011年 第1回 ZABUTON CUP 準優勝(三遊亭円丈主催)
2012年 第7回 繁昌亭爆笑賞
2014年 国立演芸場花形演芸会銀賞
2015年 国立演芸場花形演芸会金賞、上方落語若手噺家グランプリ優勝、第11回繁昌亭奨励賞
2016年 国立演芸場花形演芸会金賞、第一回ロフト“くち喧嘩王"選手権優勝(ロフトプラスワンウエスト主催)
2017年 国立演芸場花形演芸会大賞
2021年 第16回繁昌亭大賞大賞


笑福亭たまオフィシャルホームページ

関西弁のイントネーションは、他の地域の方にはなかなか真似するのが難しいと言われる。
イントネーション以外にもある、大阪弁の言葉の”音”に秘められた秘密とは。
そして、落語と一見共通点が無さそうなプロレスとの意外な(?)共通点についてを伺った。

伝統文化の古いものは上方なんです

サインをされる時に「沈黙は金」と一緒に書かれることがありますが、なぜこの言葉なんですか?
(沈黙は金:黙ることが時には大切であるという意味)

笑福亭たま

いらんことを言うからです(笑)。

笑福亭たま

自分に言い聞かせる為でもあるということですね。

笑福亭たま

そうですね。
あと、噺家やのに「黙る方がええって、どういうことやねん」というシャレもありますが。

今でこそ落語を聴くというのは珍しくもないですが、入門した頃は「落語を聴くなんて、おかしい」という時代だったそうですね?

笑福亭たま

「趣味は落語」とか言うたら、汚いものでも見るような目で見られる時代でした(笑)。

その頃は、大阪に天満天神繁昌亭もまだ無い頃でしたが、その状況が変わり出したと感じたのはいつぐらいからですか?
※天満天神繁昌亭は2006年9月15日に開館。

笑福亭たま

これは芸能というか娯楽全般の雰囲気の話やと思います。
当時、世間では、いわゆるオタクと言えば「アイドルをストーカーする変質者」「アニメ好きで引きこもりの変態」みたいに扱う風潮でした。
まだ「一般大衆・メジャーが求めていないものを好きになる」というのは異端になる時代です。

だいたい1990年代ぐらいですよね。

笑福亭たま

丁度その時代に、落語っていうのはそれの伝統芸能版で存在したということです。
今だと、趣味が例えばコスプレとか、どんな嗜好もそれは趣味として認められていますよね。

そうですね、おかしいとかも全くなく。

笑福亭たま
笑福亭たま

世の中の流れの変化と共に、人の価値観も変わって、個人的な嗜好が認められる時代に移り変わっていったんだと思います。
もちろん落語も同じように「異端な好み」から「世間が認める趣味の一つ」になっていくと、当時から僕は予想していました。
なんとなく繁昌亭が出来る数年ぐらい前から、お客様が落語を異端な趣味と思わない雰囲気になり出していたと思います。
実際、繁昌亭が出来る前からお客様は全体的に増えて行ってましたし。

師匠である福笑師匠は「大阪弁に厳しい」そうですが、どう厳しいんですか?

笑福亭たま

うちの師匠は「上方落語らしいかどうかは、ちゃんとした大阪弁かどうか」って言うぐらいですから、訛り(イントネーションやアクセント)に物凄く厳しいです。江戸落語を聴いてもらうと分かるんですけど、「五と七」では別に構成されていない。
「日本の伝統文化が…」とか言うけど、そのうち古いのはほとんど上方文化でしょ。
清少納言や紫式部も関西ですし…、生まれは知らんけど。
和歌も、メインでやっとったんは関西人。
だから「五と七」で構成されやすい。

それは、昔は奈良や京都が文化の中心だったからですよね?

笑福亭たま

そうです、だから大阪弁というか、上方落語は「七と五」のメロディが結構重要になると思うんです。
逆に言うと上方落語は関西以外の人には通じにくいです。
それは、この「七と五」のメロディの強みが通用しないから、全国的には江戸落語の方が分かりやすいんやと思います。日本人がみんな、関西人と違いますから(笑)。ただ、そのメロディを学ぶことが落語の修行の一つだったりするんで、芸を高めていく時にはそういうことが大事で、広めていく時にはそれを薄めていくとか、そういうことですかね。

そのメロディの具体例って何かありますか?

笑福亭たま

例えば、私が習った『犬の目』という落語のセリフで、(患者の目をくり抜いて)「見てみなされ、これがアンタの目の玉じゃ」「そんなアホな、わたい自分の目ぇくり抜かれんてんのに、どないして見まんねん」というギャグがあるんですけど。
「こ・れ・が・ア・ン・タ・の」で7音、「目・の・た・ま・じゃ」で5音という風に、ちゃんと「七と五」になってる。

確かにそうですね、それは福笑師匠が教えてくれたんですか?

笑福亭たま

そうですね、「チャチャチャチャンチャカ、スッチャカチャン」になるって。
笑わす為にはこういうリズムというか、メロディになると。
もちろん敢えて外すこともあるんですけど。
この基本的なメロディとかイントネーションを習得すること = 大阪弁を習得することが落語の基本やと。だからうちの師匠は大阪弁に厳しいんです。ただ師匠も「大阪弁も時代とともに変わるからなぁ」と言いますし、最近の大阪弁はだいぶマイルドになった気はしています。

マイルドになってるんですか?

笑福亭たま

落語ってやっぱり「目の前にいる人に通じないと意味がない」ので、若い人に通じない大阪弁はドンドン減ってると思います。
今は、関西以外でも通じる大阪弁を古典落語でも喋ってる気はします。
その意味で私の大阪弁もだいぶマイルドになってる気はします。
そう思いまっしゃろ?(笑)。

「お腹がよじれるぐらいおもしろかった」を味合わせたい

「師匠からもらった快感をお客さんに与えたい」というのが目標と過去のインタビューでもおっしゃってましたが、これは今もそうですか?

笑福亭たま

そうですね、師匠の「時うどん」を生で観た時にお腹がよじれるぐらいおもしろかったんで。
それをお客さんに味合わせられたら…と思っています。
せやけど、それを確認するすべが無いというのが、この世界ですね。
だから、師匠を超えられないっていうのは、そこにあるんでしょう。

笑福亭たま

「月刊笑福亭たま」は2013年2月から開催し、コロナ禍による休止がありつつも、今年(2024年)の9月に100回突破記念を開催されますね。
「月刊笑福亭たま」は普通の独演会とは違うコンセプトで始まったんですか?

笑福亭たま

それこそ「自分の今のおもしろさをお客様の数で、客観的に評価する」がコンセプトですね。この会をやる前は単に「ちょっとずつおもしろくなろう!」っていう意識だけで暮らしてました。
それである意味幸せだったんですよ。
たまに落語会を開催したら、それなりにお客さんも来てくれて、何とか生活できてるし。
「こんな感じで人生終わっても、ええんちゃうかな。この後は自分がオモシロくなるだけや!」って思ってたんです。
でも、オモシロくなってるかどうかって、独りよがりの可能性がありますよね。

客観的な判断がないからですよね。

笑福亭たま

それでその「オモシロくなっているか」というのを調べる上で、「独りよがりやない客観的な指標」がいるんやないかと思いました。
簡単に言うと、お客さんの数です。自分がおもしろくなれば、基本的に自分の落語会の入場者数が増えますよね。でも、ここに問題があって、落語の面白さと無関係に、広告宣伝を増やしたり、落語会の快適さをアップしても、お客さんは増えるんですよ。
変数は必ず2つなんです。
1つ目は「落語の面白さ = ソフト」で、2つ目が「落語以外の宣伝やイベントの快適さ = ハード」、この2つでお客様は増減します。

分析されてますね。

笑福亭たま

そうなると噺家の言い訳として「自分の落語はおもしろいけど、外的要因でお客様が来ない」みたいなのが発生してしまうんです。当時の先輩噺家のあるあるなんですけど、「自分の今の状況を世間のせいにする」という(笑)。
「今日は雨やしな」とか「阪神巨人戦があるしな」「日本シリーズが始まったしな」とか(笑)。
その時、思ったんです。
自分でお客様がお越しになりやすいチラシを作成して、ダイレクトメールもキッチリ出して、落語会を毎月開催して「平日夜→平日夜→土日の昼」の繰り返しという風にしたら、「来たいけど来られない人」などいなくなると。

そうなりますよね。

笑福亭たま

ほな、しょうもない言い訳をしなくてええやないですか。
来たい人はもう全員来てる訳ですから。
そうなったら、一切の言い訳をせずに、その日の入場者数が「今の自分のおもしろさ」だと諦め(?)も付くと思ったんです。
もしハードの努力で、お客様の数が横這いになったら、その時点が自分の現状のおもしろさの客観的数値で、そこからお客さんが増えたらおもしろくなってるという証拠になると考えたんです。
それで、「今の自分の力はここまでです」という数値を測ろうと思って始めたのが「月刊笑福亭たま」ですね。

"落語たらしめてる"のは「落語の構成」だが、落語の"素晴らしいところ"は「落語の構成にとどまらない」ところ

初心者が多い落語会では、派手な着物を着ていたそうですが、この頃は、地味な着物に変えてるそうで、これには何か理由はあるんですか?

笑福亭たま

初心者の客層が変わりつつあるからです。

どういうことですか?

笑福亭たま

昔は私が地味な着物を着て登場すると、「本寸法・正統派」みたいな江戸落語家に見えて違和感が出たんです。
江戸前の着物を着たら、私は見た目は(柳家)三三師匠みたいに見えるでしょ?(笑)。でも喋り出したら、(三遊亭)白鳥師匠みたいな路線に感じるんです。「おもしろい」を訴えたいのに、「ちゃんとしてる」という先入観があると、お客様はその違和感から「ひょっとしたらおもしろくない人」と私を思い出すんです。三三師匠の場合は最初から最後まで「正統派」が全面に出て「落語っておもしろい」になります。
白鳥師匠なら最初から最後まで「笑わせたいんだな」が全面に出ます。
私が地味な着物を着るとどっち付かずになるから、派手な着物を着て「とりあえず正統派でない・おかしな人」を訴えるようにしていました。

笑福亭たま

そんな戦略だったんですね。

笑福亭たま

でも今の落語会に来る初心者のお客様は、お金と時間に余裕のある人が大半なので、私がド派手な着物を着て出ると「安物」に見えるのです(笑)。
それに、今は、入場料が高額でハイグレードな雰囲気の落語会の方がお客様は集まります。
落語マニアは安くて面白い落語会に行く方法を知ってますから、そんな会には行きません。
必然的にハイグレードな会のお客様は、ハイソな初心者だけになります。
その時に、派手な着物は良くないんです。
高級な包装紙でないと、お客さんが納得しないので、羽織は黒紋付で、ちょっと江戸前みたいな着物にしています。

安く見えないようにですね。

笑福亭たま

正に今は三三師匠に寄せています(笑)。
初心者のお客さんが多い時ほど、江戸前にしています。
その方が「おっ! この人は本格派や! お金出した価値がある! ほな聞こう」って思ってくれますから。

2021年出演のラジオ「金曜演芸もん!」でおっしゃってましたが、新作の作り方は師匠からは教わらなかったと。
では、初めから自分で手探りで作られたんですか?

笑福亭たま

そうですね、最初はとにかく自分1人で作った新作ネタおろしをする「ハイブリット特選演芸会」というイベントをやってました。
半年ぐらいは自分で変な新作をしてたと思います。
そのあと、放送作家の米井敬人さんと2人で「たまよね」という会を2年ぐらいしました。
「落語でまだ使ってない斬新な技法」をやるというコンセプトで、2人であぁでもないこうでもないと新作を考えていく会。

2人で考えるなら、発想がより広がりそうな。

笑福亭たま

でも当時は「これって落語になってない」という感覚が強かったですね。
それで試行錯誤しながら「憧れの人間国宝」の原型みたいなんができた時に、「あぁ、落語の文法ってこうなんや!」って分かりました。
その時に「文法に斬新さ」があると落語に感じにくいと分かって、「たまよね」は一旦終了しました。
その後からは、また1人です。
結局、斬新さが邪魔やとわかるという(笑)。

「落語の文法」とは、どういう文法ですか?

笑福亭たま

師匠から何となくは聞いてたんですけど、オーソドックスな落語の文法というのがあるんです。
「ツカミ」→「失敗談」→「本編1」→「本編2」みたいなものであって、オチからは作らないですね。
オチから作ると意外に落語にならないんです、オチは単純に謎かけでもええ訳ですし。落語を「落語の台本たらしめてるものは何か」と言ったら、落語の構成 = 文法なんですよ。ただ、落語の素晴らしいところは、落語の構成やないというところです・・・。ややこしいですが、"落語たらしめてる"のは「落語の構成」だけど、落語の"素晴らしいところ"は「落語の構成にとどまらない」というところです。

どういうことですか?

笑福亭たま

新作落語でも「落語らしさ」を感じる落語は、さっき言うた「オーソドックスな文法」に沿ってるんですけど、そういうオーソドックスな落語ばっかりやと、たとえ新作でも均一化しておもしろくなくなるんです。
だから、たくさん落語を聴いてると「落語らしくない落語」も聴きたくなるんです。
つまり「落語の構成にとどまらない落語」も存在する方が、より楽しめるんです。

笑福亭たま

落語の構成にとどまらない落語をする人って例えばどんな人ですか?

笑福亭たま

桂朝太郎師匠(お笑い手品)、桂文福師匠(河内音頭に相撲甚句など)、笑福亭鶴笑師匠(パペット落語)とかいてはりますけど、この頃は後輩がそういう新作落語をしますね。
今、NSC(吉本興業の養成所)を卒業してから入門する噺家さんが増えているんですけど、その人たちの新作は従来の文法とは違った感じでおもしろいです。
それこそ、オーソドックスな落語の文法に沿ってないんですけど、それが新しい波になってる感じです。
こういう「オーソドックスやないものも含めて落語」というところが、落語の醍醐味やと思います。
落語の懐の広いところですね。

今の後輩の方々の新作はおもしろいということですか?

笑福亭たま

おもしろいですね。
実際、今はお客様も、そういう若い落語家さんの会にたくさん足を運んでいます。
私もそっちにお客様を取られてる気がしてるので、そろそろ「今日は雨やしな」とか「阪神巨人戦があるしな」って言おうと思てます(笑)。

たまさんは、落語を、プロレスとよく似てるとおっしゃることがありますが、これはどういうことですか?

笑福亭たま

プロレスの第一試合からメインイベントまでの流れと、落語会の流れがよく似てるということです。普通のスポーツとか格闘技って、ルールの中で闘って、反則したら負けですよね。プロレスの場合、ギブアップで負けるか、フォールされて3カウントされたら負けが基本なんですけど、凶器攻撃をしても5秒以内は反則にならないという。「反則は5秒までしてもいいってなんやねん! それっ」ていう(笑)。

ハハハ(笑)。

笑福亭たま

よく考えたらおかしな話やないですか(笑)。
でもプロレスを観に行ったら、何の違和感もなく楽しめるんです。
それこそ「よく考えないと、おかしさに気付かない」巧妙な番組構成だと思います。

笑福亭たま

巧妙というのは?

笑福亭たま

まず第一試合って、落語の前座と一緒やと思います。
それはなぜかと言うと、あたかも、格闘技と一緒と思わせるのに必要なんです。
まずは「格闘技と同様、ルールに則って闘う(反則は当然ダメ)」が基本です。前座の落語も「古典の世界観で笑わす(想像の笑い)」が基本です。けど試合が進んで盛り上がってる時に「ルールから逸脱してるやないか!」ってお客様がツッコむのは、それはそれでおもしろいですよね?

おもしろいですね。

笑福亭たま

プロレスも落語も「普通はこうだ」っていう先入観を利用してるんです。
つまり、プロレスで反則を裁くのはレフリーですよね。
そのレフリーが見ていないところで、相手の股間への急所攻撃がされた時に、それは「アカンやろー」なんですけど、それでも試合は続行されるわけですよね(笑)。これは、お客さんが何がアカンのか分かった上での「アカンやろー」なんですよ。最初から何をしても構わないんなら、おもしろくないんですよ。
あくまでルール上はダメだけど、「レフリーが気付いていない = 偶然、反則が取られていない」状態やから、お客さんが気付いて「アカンやろー」とツッコむからおもしろいんです。

ルールを守らないといけないという先入観があるからですよね。

笑福亭たま

だから第一試合は「基本ルール」の確認になるんですよ。
特に初心者がこれを観ることで「何がOKで、何がアカンか」を理解できるわけです。
ほなどっかでルール違反が起きた時に、お客さん全員で「アカンやろー」って、ツッコむことが出来るんです。
つまり試合が進むにつれて、お客様は、プロレスのルールだけでなく「脱線の仕方」とかまで含めて、理解をドンドン深めて楽しんでいきます。

まずは基本の型を見せて、違いが分かりやすいようにということですね。

笑福亭たま

落語もそんな感じで番組が進むにつれて、古典落語に現代ギャグを入れる人が出たり、現代ものの落語(新作)が出たり、漫談で終わる人が出たりして、お客様が「ええ? こんなんもアリなんか?」みたいになります。この基本形でおもしろい落語と、脱線した形でおもしろい落語が混ぜこぜだからこそ、落語会全体がおもしろいんです。でも基本ルールがないと、そもそもルール違反 = 脱線もありませんから、基本形も大事だし、脱線も大事という話です。
その意味で、前座さんは、プロレスの第一試合と一緒で、「基本はこういう形」というルールと先入観を与えるためにキチンとした古典落語をするのが普通です。
前座さんがキチンと古典落語をするからこそ、番組全体がおもしろく構成できるわけです。

だから、番組構成なんですね。

笑福亭たま

ただ、こんな風に私は言うてますけど、プロレスファンも落語ファンも、確固たる独自の信念や価値観を持ってるので、こんな話をしたら「全然違う!」とか言われそうですけど。というか、そもそも私がしてるこの意見も、他の噺家が聞いたら「全然違う!」っていう可能性すらあります。
まあそういう考えの違う人が混ぜこぜでおれるのが落語の醍醐味とも言えるんやと思います。

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